ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「実子誘拐」なる概念に潜む不平等

 共同親権を推進するひとたちは、「実子誘拐」「実子連れ去り」なんて言葉を使って、こどもと一緒に自分の下を去った(元)配偶者を非難したりしている。

 これ、かなり不平等ではなかろうか。同居していた家にとどまり続ける方は、いちおうこどもと一緒に生活する権利が与えられるのに対し、同居していた家から去らなければならなかった方にはそのような権利が一時的ではあっても剥奪されるのだから。家にとどまり続けられる方に一方的に有利な、傾いている天秤にわたしには見える。このような問題は、家事事件として扱われるべきであって、刑事事件として扱うには不相当と考える。家にとどまり続ける側にそこまでの権利を与えることには躊躇するからだ。こどもと一緒に家を去った側を「誘拐」として処罰することは、家にとどまり続ける側に強い権利を与えてしまうことになるからだ。それは、例えば次のような例で問題になる。

 父親は14歳になった娘に、連日性加害を行うようになった。娘から打ち明けられた母親は、父親の行為をとがめたが、父親はそれに対して逆上し、母親に刃物まで突き付けるようになった。とうとう、母親は娘を置いて逃げるほかなくなった。

 と、このような事例で、娘に性加害を行っているような父親に、こどもと一緒に生活する一応の権利が与えられることになる。このような事例で娘を連れて逃げた母親を「実子誘拐」として処罰するのは一体誰のためなのだろうか?単なる父権の主張に過ぎない。そう考えると、刑事事件として取り扱うには不適当だと考える。ちなみに、この設例は実話だ。日本で初めて法律を違憲無効とする判決が下った事件でのことである。

 仮に、家にとどまる側に一応の権利を与えるとしたら、家庭内にガンガン警察が介入するほかない。日本では犯罪になりにくい心理的虐待が犯罪として処罰の対象になり、有罪判決と同時に親権を剥奪するような強度の介入が必要になる。こどもの養育に関してここまでの介入を国家に認めることにもやはり躊躇するのである。

共同親権推進派が考えるほど、日本法は「親による保護の権利」を信用していないし、日本法のこの態度はリーズナブルだ

 ちょっと前にこんな投稿を見かけた。

 「こどもの人権」を考える側からの共同親権推進の意見。この意見は、しかし、一定の前提を置いている。それは、「双方の親から養育を受けることこそがこどもの権利である」との前提である。この前提をもう少し敷衍すると、「親の信念に従って教育を受けることがこどもの権利である」との意見になろうか。ここで述べられた「こどもの権利」は、正確には「親による保護を受ける権利」と述べたほうがより正確だ。このような思考方法は、ヨーロッパなどでオーソドックスなものであった(だからこその共同親権!)。そして、このような思考方法の下では、親がこどもになす教育は、虐待のような極端な場合を除いて疑われることはない。親による保護をほぼ無条件で信頼しているともいえる。

 ところが、そのような無条件の信頼が見事に砕かれた。いうまでもなく虐待の激増が原因だ。もはや、ヨーロッパの法は「親による保護」を無条件で信頼することができなくなった。それは国際条約にも反映されている。1966年に採択された市民的及び政治的権利に関する国際規約では、「この規約の締約国は父母及び場合により法定保護者が、自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する」(第18条4項)と定めていたものが。1989年に採択された児童の権利に関する条約は、「締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する。 」(第14条第2項)となった。「権利を行使するに当たり」「その発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利」にまで後退した。もはや、自己の信念に従って教育を行う自由は保障されない。こどもは、「保護を受ける権利を有する存在」から「自律して権利を持つ存在」へと大きく振れた。

 日本法はこれとはかなり異なった思考方法をとってきた。たとえば、こどもに教育を行う権利について争われた事件で、最高裁大法廷は「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられている」と述べている(昭43.6.26、刑集30巻5号615頁)。このような考え方は、先に述べたような、「親の信念に従って教育を受けることがこどもの権利である」との意見とは大きく異なる。親や教師による教育が「子どもの学習する権利」に対応しているかを常に問うことが求められている。これは親による養育一般にも言えることだ。ヨーロッパの伝統が親による保護をほぼ無条件で信頼しているのとは対照的だ。このような日本法の法制は、「子供は双方の親から愛される権利を持ってる」のかもしれないが、「子供は双方の親から養育を受ける権利を持ってるし、誰もそれを奪うことはできない」「双方の親から養育を受けることこそがこどもの利益であることは明白」とまでは言い切らない。

 わたしは、このような日本法の思考方法を、極めてリーズナブルなものと考える。「共同親権」を推進する側が無言のうちに前提にしている、「双方の親から養育を受けることこそがこどもの利益であることは明白」との前提をわたしは共有しない。それぞれの個別の事情に即して、「親による保護を受ける権利」と「こどもの人権」を考量しながら判断していくのがもっともよいと考える。その上で、現在国会にて審議されている法案は、「親による保護を受ける権利」の側に寄り過ぎていて、「こどもの人権」への配慮が不足しているとわたしは考える。法案を起草したひとが考えるほどには、「親による保護」への信頼も持っていない。現在国会で審議されている法案には反対だが、とはいえ、婚姻関係にないひとが共同で親権を持つことがこどもの利益になる事例もある。その最も良い例は、改姓を強制される婚姻制度を利用することなく事実婚状態にあるカップルである。このような事例でまで、単独親権である必要があるとは言わない。現に共同養育を行っている実態があって、それがこどもの利益に反していないことを家庭裁判所が確認した場合に、婚姻関係にない双方の親を親権者とするくらいの控えめな制度ならば、わたしも賛成できる。法律は人間関係を承認することはできても人間関係を創設することはできない事実を踏まえると、わたしの案は妥当なものではないか。

参考文献

森田明著「未成年者保護法と現代社会―保護と自律のあいだ―」第2版,有斐閣,2008.4.

橋本崇載さんは、共同親権が原則のフランスだったら親権剥奪される

 共同親権推進派は「外国では共同親権が当たり前!」なんて触れ回っているが、肝心なことはいつも伏せているからたまらない。たとえば、共同親権が原則のフランスでは、橋本崇載さんのようにもう片方の親である者に対する犯罪を犯した場合、それがいかなるものであろうとも、刑事裁判で親権の剥奪が命令される(フランス民法378条)。名誉毀損で有罪判決を受けたあとでも祭り上げてた共同親権推進派の皆さん、皆さんが大好きな外国の法律では橋本崇載さんは自動的に親権剥奪なんですよね。日本だとそんな人間でも親権争いをできるんだから、日本は実に加害者天国ですねえ。

 ちなみに、橋本崇載さんの場合、元妻への名誉毀損に続いて殺人行為に及んでいるから、フランス刑法221-2条によって無期懲役に処せられるとわたしは解釈したが、フランス法に詳しい方間違ってたらご教示ください。

共同親権は、怠惰な相手方を勤勉にする効果は持たないぞ。

 はてなブックマークに書くには長すぎる文章なのでこっちで。

anond.hatelabo.jp 共同親権を取って逐一養育状況を確認したい、単独親権を取らないのは自分ひとりで育てられない、相手方に監護させれば相手方の両親が面倒見てくれるとの狙いらしい。甘いな。甘い。わたしは法律家ではないが、図書館で判例データベースを叩いて家事事件の審判例をめくってくそろくでもない親族というのが世の中には山ほどいることを知ってて、そういうたちばからすれば元増田の狙いはあっさり裏切られること間違いなし。

 自分は養育できないから相手方に養育させて逐一養育状況を確認したいってところに付け込まれるよ。ある夜突然元増田の自宅の前にこどもが放置されてたりするんだよ。そうしたらどーする?警察に通報すれば相手方を保護責任者遺棄で捕まえてくれるだろうが、そうなったら単独親権に変更して自分が実際に子育てをしなければならない。「そんなにあれこれ言うんだったら自分で育てたら?」とね。そして、相手方は金輪際養育に携わらないだろう。そうすると、結局相手方の言い分を丸呑みするしかない。共同親権って怠惰な相手方を勤勉にするほどの力はないから。

 実際、兄弟同士で老親を互いの家に遺棄しあった事例があって。老親を相手方の家に置いてくるなんてことを互いにやり合ってたそうで。こんなくそろくでもない人間もいる。

 クソろくでもない親族が争う事件の審判例を山ほど見ていると、こんな悪意までそうぞうしてしまうというお話でした。

くじで大学進学者を選抜する方が公正なんじゃないでしょうかね(皮肉)

 このまとめに対する反応の続き。

togetter.com 「地方」の「女性」が慶応大学に進学してくるまでには、「地方出身」であることと「女性」であること、二つの困難を乗り越えなければならない。「東京出身」の「男性」には認識できない実情がある。「家庭の経済状況」も大学進学に影響する。大学入学者選抜はかなり不公正な状況だ。それを開き直って、「経済的に不利ならば休学と復学を繰り返せるシステムを」だとか言って、正面から大学無償化に踏み込もうとしない。休学と復学を繰り返せるシステムを作ったところで、経済的に不利な学生の不利が埋められるわけではない。

 みなさん、不平等が何よりも好きなようだから、いっそ、大学進学者はくじで選んだらいいんじゃないでしょうかね。第一段階で大学に進学できるひとをくじで選び、第二段階で各大学ごとの入試を行えばいい。それでも、現状の大学入学者と学力などは大きくは変わらないとわたしは考える。それくらいに今の日本の大学教育の分配は不公正になっている。

 皮肉はさておき、少しまじめなことを言えば、大学の合格者を厳密に学力順で決めることはない。中央教育審議会は答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」*1で次のように述べた。

 日本では入学試験のやり方は、まずなによりも公平でなければならない、という観念がはなはだ強い。しかもペーパーテストを過度に信頼し、その点数の高い方から機械的に順に入学者を決めていく点数絶対主義がひたすら正しく、1点でも低い者が落ちるのは当然で、そうするのが公平なのだと簡単に信じられている。そのためこの点だけは疑ってはならないという意識が強く働いているが、実はこの公正観が新しい不公正の始まりだということに、人々は気が付いていない。

 ペーパーテストの能力判定だけを絶対視してきた結果、大都会に住んでいて、かなり教育熱心な家庭の子どもが圧倒的に有利になっている。決して家庭の収入の多さだけが有利の条件ではない。教育投資にのみ過敏に反応する大都市居住者の子どもに一方的に有利になる、そういう結果が近年著しい。能力があっても、誰でもが平等に近づくことのできない大都会の進学実績度の高い国立の附属学校や私立の中高一貫校が、長期にわたって有利な条件を保持し続けることが、果たして公正と言えるのだろうか。何が公正であるかを、国民はここで新たに問い直さなくてはならない。

 幼いうちから受験技術の特訓を重ねる条件に恵まれた子どもにだけ有力大学への門戸が広い現状は、教育における機会均等の理念に反するだけではない。このまま続けていけば、やがて新しい階層分化を生じさせ、本当の意味での人材開発に役立たないのみならず、日本の指導者層の力の衰弱をも引き起こしかねないだろう。

 入学試験は寸秒を争う100m競争ではないのだから、もっと自由に考えてよいのではないか。何が公正かについて、われわれはもっと多元的尺度を取り入れ、今のように客観的正確さにこだわらなくてよい方法を考案すべきである。点数だけを基準にする正確さが、果たして客観的に正確かどうかも、本当のところはよく分からないのである。

 いったい何が公正の観念か?一例を挙げてみよう。

 入学定員1,000人の大学で、得点順位3,000番を採れ、とは言わない。しかし、1,000番までと1,500番までとの間に、通例、決定的差はない。仮の言い方だが、501番から1,500番までの間から500名を選抜するのに、点数とはまったく別の基準を立ててもよいのではないか。考え方はいろいろあるはずだ。何らかの方法で各県から幅広く選抜するのも、特定の高等学校に集中するのを避け、できるだけ数多くの高等学校から選ぶようにするのも、ボランティア活動や部活動を考慮するのも、職業高校卒業生を特別配慮するのも、みな公正の観念に入り得る。

 説得力のある論である。入学定員が1,000人の大学ならば、500人は得点上位500人をそのまま選ぶとしても、残りの500人は得点順位501人めから1,500人めまでの受験生の中から、全体の合格者数が男女同数になるように選び出すなどしてもよい。