ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

20代前半人口に占める男性の割合はじりじり上がってる。

 総務省統計局「国勢調査」による、20~24歳の性別人口と人口性比(女性100人当たりの男性の数)。

年次 人口総数 人口男 人口女 人口性比
1965年 9,127,519 4,523,969 4,603,550 98.27
1970年 10,727,636 5,344,885 5,382,751 99.30
1975年 9,071,509 4,563,526 4,507,983 101.23
1980年 7,841,026 3,960,116 3,880,910 102.04
1985年 8,200,554 4,165,995 4,034,559 103.26
1990年 8,800,121 4,468,199 4,331,922 103.15
1995年 9,895,001 5,041,228 4,853,773 103.86
2000年 8,421,460 4,307,242 4,114,218 104.69
2005年 7,350,598 3,754,822 3,595,776 104.42
2010年 6,426,433 3,266,240 3,160,193 103.36
2015年 5,968,127 3,046,392 2,921,735 104.27

 1975年以降、20歳から24歳までの年齢層では、男性の数が上回っている。しかも、人口性比もじりじりと上がってきている。仮に、全員が男女カップルで結婚するとして、「女性をあてがう」非人道的な政策を実行したとしても、あぶれる男性は絶対に出ることになる。

障害者の中の強者と弱者

blog.livedoor.jp

 この記事に対して、感謝が足りないだの熱海で降りてタクシー利用しろだの冷たいことを言うブコメが見られる。その横で、たまたま東京23区内で生まれただけで、都営交通の無料乗車券をもらえて、都営無双なんて言ってあちこち行ってる精神障害を持つ人がいる。障害者の中でも弱者と強者は確実にいる。都営無双なんて言ってあちこち無料で行ける精神障害を持つ人が強者で、公共交通機関を利用するときにいちいち感謝しなければならない車いすユーザーが弱者。

 と、こんな情景を見ていると、障害を持っていても比較的恵まれた人が多くの恩恵を受けている都営交通の無料乗車券、廃止したほうがいいんじゃないかとさえ思えますね。

公共交通を利用するとき、事前に計画するなんてことをどこまでできるのだろう

 埼玉県春日部市が運行しているコミュニティバス「春バス」、系統にもよるのだけど、週3日運行の系統がある。そんな系統しか走ってない地域に住む人は、春バスの運行日に合わせてありとあらゆる行動、それこそ通院から買い物までをしなければならない。実際には自家用車を持ってる人ばかりだろうから、自家用車を使って、コミュニティバスなんて使わないのだろうが。バスの運行日に合わせてあらゆる行動をするなんてことをするなんてのは結構ハードルが高い。どこかに行こうと何日も前から計画して、なんてのが難しいからだ。

 ところが、公共交通に乗ることを何日も前から計画することが求められる人たちがいる。車いすを使う障害者だ。それこそ隣の駅に行くのさえ、何日も前から駅に連絡しておかなければならない。そりゃあちょっと酷ではないかい?と思う。じゃあどうするかってのはわたしもすぐには考え付かないんだけど、何とかならないものか。

語りえぬもの

 わたしはなにかと批判的に、それも強めに論ずる傾向はあるんだけど、それでも語りえぬものってのは存在する。たとえば、加害と被害が起きた事件で、被害に対してどう償うことがよいのか考えもつかないような事件。そのような事件を目にすると、加害に対しては許せないとの気持ちは当然出る。出るのだけど、それを口にすると途端に嘘くさくなって、言葉がのどに張り付いたような感じになって、結局言葉には出せない。そういう事件は、わたしの目から見たら、裁判所が判決で出した命令に従うことでよしとして決着したことにするほかないような事件であったりする。そういう事件について、わたしはとても語りえないので、何も語らないことにしている。

マイノリティが無償の感情労働を延々と求められるのは、アンフェアだよなあ

 ジェンダーでも、人種でも、なんでもいい。マイノリティとされる人たちは、すぐに「踏まれる」。マイノリティを踏むな、その踏んでる足をどけろと言うのに、懇切丁寧にわかりやすく、しかも踏んでる人間を包み込むような優しさをもって教えてあげる無償の感情労働が求められる。これってめちゃくちゃアンフェア。挙句、「他でも少しトラブルを起こし気味」などと揶揄される。たいがいにしてほしい。

 んで、そういう人たちが持ち出すのが「対話」。マイノリティが真摯に対話すればマジョリティもわかるはずだと。なんでマジョリティがわかるようにかみ砕いて説明する手間暇かけなきゃいけないの?その分報酬払ってくれるの?どうせ払わないでしょ?「対話」は、その美しい言葉面とは裏腹に、マイノリティへの暴力そのものとして機能する。

 soarというウェブメディアがある。生活のしづらさを抱えた人たちに寄り添う記事を書くウェブメディア。そのメディアを運営している人がこの記事を書いている。

note.com

 ルワンダのジェノサイドの被害者と加害者が「対話」して「和解」することを希望として描いている。そのような「希望」を持つことを否定はしないが、そのような「希望」を被害者に「強要」すれば暴力になる。ここにある構造は、先ほど説明したマイノリティとマジョリティの「対話」を強要するときに起きる構造(暴力)と何ら変わらない。ルワンダで被害者と加害者の「対話」が推奨されるのは、裁判所も刑務所も足りず、すべての加害者を正式の裁判にかけていたらとても間に合わないためだとの指摘はある。*1

 一見美しいように見える「対話」が、マイノリティにとって暴力的に働く場合もある。「対話」をしない人を「他でも少しトラブルを起こし気味」などと揶揄するのはいかがなものか。

*1:ポール・ルセサバギナ著、堀川志野舞訳「ホテル・ルワンダの男」ヴィレッジブックス