ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

なぜにスペシャルスクールでなければいけないの?

 少し前にこの記事を読んだ。

 

 で、どうしても違和感を拭えない。著者である立石美津子さんは、「特別支援教育という素晴らしい制度があるのになぜ、これを受けさせないのか、不思議に感じてしまいます」と書いている。ここで大きな問題として、立石美津子さんが書いているのは「特別支援学校という素晴らしい制度があるのになぜ、これを受けさせないのか、不思議に感じてしまいます」ということなのに、あたかも特別支援教育を拒否するのは不思議という書き方をしている。特別支援学校は、特別支援教育を構成する要素の一部でしかない。

 特別支援学校に行きたくないと言うことは、特別支援教育を拒否することではない。小中高校で特別支援教育を受けられるならそのほうがいい保護者の方は多いだろう。特別支援教育のすばらしさを語るあまり、特別支援学校の問題点を無視してしまった。特別支援学校の問題ってのは、端的に言えば障害を持つ子どもと障害を持たない(とされる)子どもの生活の場が全く分かれてしまうこと。このことに対する配慮はいささかも感じられなかった。かくして、障害を持つ子どもは障害を持たない(とされる)子どもとは別の場で生活するのが素晴らしいことだ、という文章になってしまった。そして、その先にあるのは、障害を持つ子どもは障害を持つ人だけを集めたコロニーのようなところで生活するのが一番の幸せである、と押し付けることだ。学校の分離は生活の場の分離も生む。

 いや、交流学習とかあるでしょ?と言われるかもしれないが、交流学習という「非日常」では、障害を持つ子どもは「特別」という考えを強化させるだけではないか。実際、現場からはそのような声も聞こえてくるとのこと。

 

 特別支援教育は必要なものだろう。障害のある子どもの特別なニーズに応えるために。だけれども、そのために生活の場を分ける必要はあるのか。そこから問い直して欲しい。生活の場が分かれてしまうことへの抵抗を一切無視して、特別支援学校のすばらしさだけ説かれても、肝心なところが抜け落ちてるな、と見える。立石美津子さんは「特別支援学校高等部を卒業した青年が誇らしげに「僕はスペシャルスクールを卒業したんだ」と笑顔で語っていたのが印象的でした。皆さんはどう思いますか?」と記事を締めているけれど、これは個人の感情論で、生活の場を分離するのはいかがなものかと指摘されたときのために「スペシャルスクールを誇りに思っている人がいるんだ」と事前に反論する予防線を張ってただけだろう(これを相殺法と言う)。そんなことを言っても、生活の場を分けることを肯定する理由になんてならないのに。

 

 もうひとつ、余談。日本で統合教育が普及しないのは、同じ学校にいる生徒が全く違うカリキュラムで学ぶことを許容できないからだと考えてる。例えば東京都立新宿山吹高校なら、同じカリキュラムで学ぶ生徒は誰一人いない(たぶん)が、そんな学校はまれ。ひとつの高校に学力差のある生徒が一緒にいる、だけどカリキュラムはそれぞれ違う、なんてのが実現しないとなかなか難しい。