ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「支援」は「幸福」を演出できない

市民生活の豊かさの演出を、税金で実現できるのは限られた場面しかありません。
―くろかわしげる氏のブログ「今日も歩く」内「8/31 生殺しの埼玉県南部の自治体財政」*1より

 

裁判所は人間関係を形成することができるように振舞うが,実際に裁判所ができることは,すでに人間関係が存在する場合にそれを承認し,人間関係がこれから形成される場合にその可能性を保障することにすぎない。法は、人間の情緒生活に対しては、むしろ荒っぽい道具である。法は、人間関係を破壊することはできるが、強制によって人間関係を形成することはできない。
―「子の福祉を超えて―精神分析と良識による監護紛争の解決―」ジョセフ・ゴールドスティン、アンナ・フロイトアルバート・J.ソルニット共著、中沢たえ子訳、岩崎学術出版社

 

Q.彼氏はできますか?
できる可能性があります.ただし必ずできるという保証はできません.
同じクラスや,学科や学年の垣根を越えて親睦を深めている様子が学校内でも見られます.互いに悩みを相談したり,思いやる気持ちを育んでほしいと思います.
ただし,気の合う相手が見つかるかどうか,好みの相手が同じ次元に存在しているかどうかは分かりません.したがいまして,皆さんにもれなく彼氏ができるかについては保証したかねますので,ご了承ください.
長野工業高等専門学校サイト内「理系で行こう!」*2より

 と、引用3つ並べたところで、本題。わたしも参加していたイベントであるひきこもりフューチャーセッション「IORI」の参加者のお一人(実は結構名が知れている)がこのような記事を書いていた。

vosot.hatenablog.com

 その中に、気がかりなことが書いてあった。ある男性参加者が、ひきこもり当事者向けに性的なパートナーを行政が用意してほしいとの趣旨のことを語ったとのことだ。わたしはこれを聞いたときには仰天した。したが、どこに違和感を感じたのかはちょっと整理してた。その結果、女性の身体を自分の性欲を満たすための道具として扱っていることに仰天したのだった。その場にいた女性参加者からは反対の声が上がったが、当たり前だ。「わたしたちの身体を性欲を満たすための道具としてしか見てないの?」と当然考えるだろう(わたしはその場にいた女性参加者ではないので推測)。

 そして、なぜそのような考えを持つかといえば、行政が人為的に性的なパートナーを用意するなんてことができたとして、人為的に用意された性的パートナーと性的関係を持ったとして、それで果たして満足するのか?と強く疑いを持ったからだ。そこで冒頭の引用「法は、人間関係を破壊することはできるが、強制によって人間関係を形成することはできない。」を想起する。「法」を「制度」と読み替えていただいても構わない。制度は、人間関係を作ることはできないのだ。すでにある人間関係を承認することはできるが。いくら長野高専に男子学生の割合が高いからって、彼氏はできますか?と問われれば「皆さんにもれなく彼氏ができるかについては保証したかねますので,ご了承ください.」と答えるほかない。長野高専が彼氏彼女の仲を承認することはできても、彼氏彼女の仲を作ることはできない。学校も含まれるところの制度の限界である。制度によって人間関係を強制できるなどと考えるのは、あまりにも人間をバカにした考え方ではなかろうか。

 人間関係を行政が作り出すことはできないとは今述べてきたとおり。これ、人間関係に限らず、人間の幸福一般にも言える。行政の力で幸福を演出できると考えるのも、やはり人間をバカにした考えと言わなければならない。「支援」もまたしかり。「支援」によって幸せを演出することはできないのである。「支援」にできるのは、貧困などの「不幸」を取り除くことだけである。「支援」の限界を知らなければ、する側・される側双方にとって不幸になるだけだ。

 「ひきこもり」をめぐっても、さまざまな「支援」が行われている。また、当事者活動も活発に行われている(地域もある)。ひきこもり当事者が自分に合った生き方を模索する試みも多数行われている。わたしは、ひきこもり当事者が行っている様々な試みのすべてを「支援」することは無理だとの前提に立つ。「支援」にできることは、ひきこもり当事者がさまざまな試みに踏み出すうえでの障壁を取り除くことだけである。「支援」が、自分にとっての幸福を用意することはできない。そのことを踏まえたうえで、「支援」について語られなければならない。

 わたしが先ほど書いた、ひきこもり当事者に性的パートナーを行政が用意してほしいと語った参加者は、明らかに「支援」に過剰に期待している。「支援」は、あなたが満足するような性的関係を作り出してはくれない。そして、わたしには、IORIの「ひきこもりは地域に支えられたいのか」というテーブルに参加してた人のほとんどが、「支援」に過剰な期待を寄せているのではないかと危惧している。

 精神科医の井原裕さんは、「うつ病臨床における「えせ契約」(Bogus contract)について」(精神経誌. 112 (11): 1084-1090, 2010)*3の中で、精神医学的「支援」なるものの限界を説いている。比較的「支援」の方法論が確立していると思しきうつ病臨床の世界でも、精神科医への過剰な期待があるのだと言う。「支援」に、過剰な期待を持つのはやめるべきである。

 わたしのなかでは、制度が人間関係を作ることができないってことと、行政が豊かさを税金で演出できるのは限られた場面に過ぎないことは、根っこが同じに見える。その根っことは、「制度」や「支援」が、幸福を演出することはできないとの事実である。

 

(追記)

 「ジェンダー間暴力」であるとの観点から、おがたけさんが深く突っ込んだ論考を書いてくれた。そちらにもリンクを。今さらわたしが書き加えても二番煎じにしかならないので書かない。

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