ふらふら、ふらふら

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ここまでのぼそっと池井多さんの対応の問題点をざっと整理

簡潔に問題点を整理

 ここまでのぼそっと池井多さんの対応について、問題点を要約すると次の二点になる。

(1)性差別的な発言を「表現の自由」の名の下に放置したこと
(2)そのような未熟な語彙しか持たない発言者が語ったことを、不用意にそのままの形で外部に出したこと

 このうち、(1)についてはおがたけさんが余すところなく指摘してくれているので、わたしは(2)について主に指摘する。その過程で(1)についても触れることにはなる。

「関係を承認する」と「あてがう」の違い~「健康で文化的な最低限度の生活」(柏木ハルコ)の栗橋千奈と佐野美琴を例にして

 ご存知の方は多いだろうが、「健康で文化的な最低限度の生活」というマンガがある。生活保護制度を運用するケースワーカーを主人公に、生活保護について描いたマンガ。

 その中に、生活保護利用中に妊娠が発覚したシングルマザー・佐野美琴が登場する。佐野美琴の担当ケースワーカーが栗橋千奈。栗橋千奈は、生活保護を利用している中で妊娠したシングルマザーの出産をどうするか、考えあぐねる。上司からは「世間的に許されるかどうか」などと、暗に中絶することを指導するように言われる。そんな中で、佐野美琴の自宅へ赴き、今後の方針を話し合うことに。自宅に行く前に、佐野美琴の支援にともに当たっている子ども家庭支援課のソーシャルワーカー・金子いくよに産むべきか産まざるべきか迷っていることを打ち明ける。それに対して、金子いくよは「そんな人の生死にかかわるようなこと、ケースワーカー個人の価値観で決めていいことじゃない。それを決められるのは本人よ」と言われる。

 そして、栗橋千奈は、佐野美琴の自宅に行き、話を始める。佐野美琴が、「制度上はって言っても、実際に産んだらひんしゅくを買うんですよね」と問うのに対し、栗橋千奈は「人がどう思うかはわからない。だけど、もし産むとしたら、しっかりビジョンを持っておく必要がある。人の手を借りることは迷惑ではない。いつでも周囲に助けを求められるように、そういう覚悟を持っておく必要がある。世間の目が怖いのはわかるが、本当に怖いのは、生まれてくる命を守れないことではないか」と語る。そして、最後に佐野美琴は問う。「私…いいんですね?この子を…産んでも…」と。

 その後、栗橋千奈は、福祉事務所に戻り、「本人の意向により出産する方向で検討する」とのケース記録を書き上げ、係長に上げる。係長が出産に難色を示す中、栗橋千奈は一言。「憲法13条幸福追求権に基づいて仕事しました」と。

 やや長々と説明した(わたしがこのマンガで一番思い入れのアルシーンだ)が、「生活保護を利用しているのだから子どもを産むべきではない」なんて「べき論」に抵抗し、子どもを産むことを【承認】した生活保護担当ケースワーカーが描かれている。わたしは、栗橋千奈の決断に、全面的に賛同する。生活保護を利用しているから出産してはいけないなんて、いったい誰が決めたんだい?と、わたしは考える。

 翻って、ぼそっと池井多さんが紹介していた、2月7日の「庵」での発言。その後、ぼそっと池井多さんがあれこれ弁明しているが、もともとの発言の要旨は、「ひきこもりだからといって恋愛をあきらめろ、というのはおかしい。ひきこもりだって恋愛をしたい。セックスもしたい。女性のひきこもりにも恋愛やセックスへの欲求はあるのではないか。もしそうであれば、行政が地域でひきこもりに供給する支援としては、そういうひきこもり同士を紹介しマッチングするということを考えてほしい」とのことのようだ(このブログに寄せられたコメントより)。Facebookではこの弁明をもって事態が収束の方向に動いているようだが、わたしは、それでも、この発言には大きな問題があると考えている。「ひきこもりだからって恋愛を諦めろ、というのはおかしい」と言うのなら、それはごもっとも、先ほど紹介した栗橋千奈のように、ひきこもり当事者が恋愛することを妨げる障壁を取り除くのは当然のことだ。いったい誰がひきこもりは恋愛してはいけないなんて決めたんだい?とも言いたい。

 だが、ぼそっと池井多さんの弁明を聞いてもなお、元の発言には大きな問題がある。それは、「地域のひきこもりなどから性的パートナーをあてがってほしい」との発言であったことだ。これは、動機がどうであれ、文脈がどうであれ、女性をモノとして扱うがごとき発言である。許されることではない。先ほどの例で言えば、ケースワーカーの栗橋千奈に「妊娠したいから相手をあてがってほしい」と佐野美琴が言うようなものだ。「私…いいんですね?この子を…産んでも…」とケースワーカーに問うことと、「私、子どもを産みたいから相手を探してください」と言うことの間には、大きな段差がある。そのことをぼそっと池井多さんは相変わらず認識していない。そのことを確認したうえで、次の論点に行く。

ぼそっと池井多さんは、ついに、泥をかぶってでも参加者を守ることをしなかった。

 当該の発言は確かに問題だ。だが、文脈をも含めて考える限り、どうやら発言者当人の意思とぼそっと池井多さんの書いていることは大きな違いがありそうだ。本人は、ひきこもりだから恋愛できないなんておかしい、というところが力点だったのかもしれない。それをいろいろ混乱させて、ついに問題の発言に至ったのかもしれない。言葉は遅れてやってくる。

 わたしはその前提でこれから語る。かくのごとく未熟な言葉しか持たない、そのような人が発した言葉を、そのままの形でよりにもよってネットに書いたのは道義上・倫理上問題がある。それだけではない。そのような未熟な言葉しか持たない当人の発言をそのままの形で放置したまま、本人の真意をくみ取ることもなく、その日その場にいた多くの参加者の批判にさらした。ぼそっと池井多さんは、どのような発言もフラットに扱うべきであると考えていたようだが、この件に関してはそれは失当だった。ある発言をフラットに扱わず、悪いものとして宣言することは、それなりに覚悟がなければできないことである。だが、あの場でファシリテーターを務めていたぼそっと池井多さんは、泥をかぶってでもその発言を「悪いこと」だと宣言し、そのうえで本人の真意を引き出すべきではなかっただろうか。「ひきこもりだからって恋愛してはいけないなんてひどいよ」という真意を。そうしていれば、場の展開はまったく違ったものになっていたはずだ。ファシリテーターが参加者を守らずして、誰が参加者を守る。

 結局のところ、ぼそっと池井多さんは、書いていいこと・悪いこと、言っていいこと・悪いことの区別を放棄し、結果として参加者を大いに傷つけた。これは、あのような場のファシリテーターが負う倫理的責任に大いに違反するものである。「それが庵の理念だから」と、弁解してみたところで、ぼそっと池井多さんの責任を免れさせるものではない。ぐだぐだぐだぐだ庵のルールなどを引き合いに出すだろうが、そんなローカルルールを持ち出したところで、人類全体が共有するべき倫理の前には無意味である。