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いわゆる「道路族問題」~負担からは逃げられない

toyokeizai.net

 なるほどねえ。道路で子どもが遊ぶのをとことんまで嫌がる人はこういうことを考えるんだね。この記事によれば「道路族マップ」の管理人は、「2019年に東京・板橋区で小学生が、ボール遊びができる公園を求めて区に陳情書を送った例を挙げ、「遊び場がないなら大人が責任を持って動くべき」とも言う。」とのことである。さらに、「道路族マップ」のトップページには、「子どもが外で遊ぶ事を否定するものではありません。公園など然るべき場所で思いっきり(ルールを守って)遊んでください。保育園・幼稚園などの建設をめぐる騒音問題とも全く別問題ですのでお間違い無いようお願いします」と記されているとのことだ。

 ここで一つ問題提起。「公園など然るべき場所」を用意するための負担についてどう考えているだろうか。公園ならいいと言ったって、どうせ公園で遊んだら遊んだでまたぞろ迷惑がるに決まってる。そうしたら、事態は学校に持ち込まれて、「先生、放課後の子どもたちの面倒を見てください」となるに決まってる。というか、これまでの部活動がそういうものだった。教員はほいほい要望に応じて、過重労働をしてでも放課後の子どもたちの面倒を見てきた。だが、もはや、教員だけに「過重労働」として負担させるのは許されない。どこかから財源を引っ張ってきて、人材を雇わなければならない。いくらぐらいかかるだろうか。2018年度に公立小中高校・特別支援学校及び義務教育学校が費やした人件費がおよそ9兆円。公立小中高校などの教職員を単純に倍にするには、さらに9兆円あればいい。9兆円をどこから引っ張ってくるか。

 ここでわたしの提案。公的医療保険制度には、現在、年間およそ10兆円の公費が入っている。この公費負担をゼロにする。公費負担をゼロにするには、被用者保険の保険料を1.5倍にすればいい。国民健康保険は被保険者の保険料負担がすでに限界に来ているので、国民健康保険の保険料はそのまま。国民健康保険よりは保険料が低い被用者保険の保険料負担を国民健康保険に揃えるだけである。それでも、たとえば福岡市の国民健康保険は被保険者一人当たり3万円弱の「均等割」、世帯当たりこれまた3万円弱の「平等割」にさらに所得の10%の「所得割」が課されているのだから(介護分はここでは考慮しなかった)、これに比べれば被用者保険の保険料を1.5倍にしても国民健康保険よりはマシである。さて、具体的な方策は示した。あとはそれを実行するかである。「然るべき遊び場」を用意するのなら、負担増からは逃げられない。この当たり前の事実に向き合わなければならない。

 もう一本記事があった。

president.jp

 要するに、「子どもの権利」を守るための負担にはもう耐えられない、との趣旨である。こちらも、負担からは逃げられないとの現実から何とか目を背けようとしている。

 マイケル・ベーレンバウムさんに言わせれば、「ただ負担になるだけの国民」の大量殺戮は、近代国家にとって永遠の誘惑である。「子どもの人権」への負担を免れようとしたら、たとえば、高齢者をなぜ養わなければならないのか、その正当性は一気に消え失せる。結果は高齢者の大量殺戮である。

 そうでなくても、将来推計人口を見る限り、高齢者の大量遺棄はもはや逃れようのない現実に見えるのだが。いくら年金を積み立てていたとしても、その年金で介護してくれる人手がいなければ高齢者を見殺しにするしかない。もちろん、今の日本では、ナチスドイツが行ったよりは「洗練された」形で高齢者の大量遺棄は遂行されるだろう。たとえば、超高額の有料老人ホームに入れない高齢者が、無届けの防火設備もなにもかも劣悪な「ホーム」に入り、その「ホーム」で火災に巻き込まれて死ぬなどと言った形で。

まとめ

 結局のところ、「道路族問題」をなんとかしようとすれば、負担からは逃げられない。その現実に向き合う覚悟をしなければならない。