ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「あてがう」は暴力

わたし自身が「あてがわれた」体験

 わたしは、結構「あてがわれた」経験がある。それも人生を左右する、重要な場面で。具体的な例を一つ。わたしは中学校不登校だったうえに担任教員ともいろいろあったので、学校ともほとんど何の連絡も取らない状態で卒業式を迎えた。卒業式も参加せず、後日卒業証書を受け取りに行った。当然、進路なんて決まってなかった。卒業証書を受け取った時に、同時にどこぞのサポート校のパンフレットを渡された。それがわたしへの唯一の「進路指導」だった。そのサポート校、年間100万円以上の学費がかかるようなところで、当時のわたしの家庭環境ではとても無理なのはわかっていた。

 それ以上に悔しかったのは、わたしが不登校だったから、サポート校が適切だろうとそれこそ適当に見繕って「あてがわれた」こと。本当は、いろいろと希望はあったんだけど、その希望はすべてかなわなかった。未だにその時のわだかまりは残っていて、高校生活も送れなかったのに書類上高校卒業者と同じ扱いにされてもね、と考えて高卒認定も受けていない。これまたキャンパスライフも送れないのに大学を卒業しても、と考えて通信制の大学に行こうとも思わない(人から勧められはするが)。

 ネットでは、いろいろ心無いことを書く人がいるものだ。やれ、金がないなら高校なんか行くな、通信制高校でいいじゃないか、と。本人の意向など無視して、経済状態が良くない家庭の子どもに通信制高校を「あてがう」。わたし、そのことがわだかまって、10年くらい通信制高校に極めて否定的な態度を取っていたことがある。そのころは、通信制高校の存在が、全日制高校に行かせないことに正当性を与えてしまうと考えて、通信制高校を廃止すべきだとさえ考えていた。

アマルティア・センさんが教えてくれた「ケイパビリティ」という言葉

 そんな強硬な考え方を持っていたわたしが変わったのは本当に近年のこと。ふと、誰かが書いていた、「ケイパビリティ」という言葉に興味があって、アマルティア・センさんの「不平等の再検討 : 潜在能力と自由」(池本幸生、野上裕生、佐藤仁訳、岩波現代文庫)を手に取った。その本で解説されていた「ケイパビリティ」の概念は、わたしに大きな衝撃を与えた。アマルティア・センさんは、どのような生活を選べるか(ケイパビリティ―ただし、この理解はわたしの理解によるもの)の平等が重要であると論じた。経済的理由である生活を選べないとしたら、それは不平等であると。通信制高校があるからと全日制高校を選べないのも問題なら、全日制高校があるからと通信制高校を選べないのも問題であると、アマルティア・センさんの議論を読んで、そういう結論に至った。やっと、あの時わたしが感じた痛みをきちんとした言葉にしてくれた感があった。「あてがう」は、暴力的である。

「ケイパビリティ」をキーワードに「ひきこもり」をとらえなおす

 さらに、わたしのひきこもり生活を振り返る。どのような生活を選ぶことができるかの選択肢が徹底的に欠けていたこと、すなわちケイパビリティのなさ(あるいは実質的な自由のなさとでも書こうか)こそが、わたしの生活のしづらさの大きな要素であると確信した。そして、蛮勇にも、「ひきこもり」現象そのものも、ケイパビリティの問題としてとらえ直すことにした。実際、わたしが会ってきた「ひきこもり」当事者を見ていると、ケイパビリティの障害とでも言えそうな人たちばかりだった。今のところは、実質的な自由が損なわれていることが、「ひきこもり」の大きな要素と考えている。また変わるかもしれないけど。

 そのような立場からすれば、「あてがう」ことは、「ひきこもり」をさらに強化させることにはなっても、緩和することにはならないと考える。むしろ、「ひきこもり」当事者を縛っている鎖をさらに増やす、暴力的なことである。

 以前、このことを、「呪いの言葉」というキーワードで書いたことがある。その時は、こんなことを書いた。

「呪いの言葉」に対して、自分を解放する「湧き水の言葉」を得ることによって、自由を手にしていく。しかも、同志とも呼べる仲間たちが、互いに互いを肯定しあう。とても素敵なことだ。そして、それは、自分がかつて通ってきた道であり、今も進んでいる道でもある。 

上西充子「呪いの言葉の解き方」を読んだ - ふらふら、ふらふら

 今も、この考えには変わりはない。「呪いの言葉」によって縛り付けられ、自由を失っている状態から、自由を回復することこそが、「ひきこもり」の回復ではなかろうか。その過程で、「あてがう」ことは、とても暴力的なことだとわたしには見える。

喜久井ヤシンさんが設定したアジェンダ

 ここからはやや余談。「ひきポス」ウェブ版で、喜久井ヤシンさんが、次の作品を公開した。

www.hikipos.info

 喜久井ヤシンさんの真意はわからない。だけど、わたしには、とても刺激的な問題提起に見えた。「健康で文化的な最高限度の生活を送ること」が、「義務」として課せられたら、それはユートピアなのかディストピアなのか。わたしは結構なディストピアではなかろうかと考えてしまう。それは、「生きたいように生きる」ことがかなりの程度妨げられていると見えるからだ。喜久井ヤシンさんは、作中で、「それなのに僕は最近、何らかの活動を始めたいと思うようになってしまった。」と書いている。これを、「ディストピアからの逃走」を描いていると考えてしまうのはわたしだけだろうか?