ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

マイノリティが無償の感情労働を延々と求められるのは、アンフェアだよなあ

 ジェンダーでも、人種でも、なんでもいい。マイノリティとされる人たちは、すぐに「踏まれる」。マイノリティを踏むな、その踏んでる足をどけろと言うのに、懇切丁寧にわかりやすく、しかも踏んでる人間を包み込むような優しさをもって教えてあげる無償の感情労働が求められる。これってめちゃくちゃアンフェア。挙句、「他でも少しトラブルを起こし気味」などと揶揄される。たいがいにしてほしい。

 んで、そういう人たちが持ち出すのが「対話」。マイノリティが真摯に対話すればマジョリティもわかるはずだと。なんでマジョリティがわかるようにかみ砕いて説明する手間暇かけなきゃいけないの?その分報酬払ってくれるの?どうせ払わないでしょ?「対話」は、その美しい言葉面とは裏腹に、マイノリティへの暴力そのものとして機能する。

 soarというウェブメディアがある。生活のしづらさを抱えた人たちに寄り添う記事を書くウェブメディア。そのメディアを運営している人がこの記事を書いている。

note.com

 ルワンダのジェノサイドの被害者と加害者が「対話」して「和解」することを希望として描いている。そのような「希望」を持つことを否定はしないが、そのような「希望」を被害者に「強要」すれば暴力になる。ここにある構造は、先ほど説明したマイノリティとマジョリティの「対話」を強要するときに起きる構造(暴力)と何ら変わらない。ルワンダで被害者と加害者の「対話」が推奨されるのは、裁判所も刑務所も足りず、すべての加害者を正式の裁判にかけていたらとても間に合わないためだとの指摘はある。*1

 一見美しいように見える「対話」が、マイノリティにとって暴力的に働く場合もある。「対話」をしない人を「他でも少しトラブルを起こし気味」などと揶揄するのはいかがなものか。

*1:ポール・ルセサバギナ著、堀川志野舞訳「ホテル・ルワンダの男」ヴィレッジブックス