ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「子どものための保護」への不信

 はてブで書くには長すぎるので、こっちで。

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 そもそも、教師が子どものためにと思ってやってることそれ自体が信用されなくなっていることを踏まえる必要がある。当該の記事で示されたのはエビデンスなどない教師の見解。しかも、アウトカム目標の設定が妥当なのかどうかも疑わしい。

 昔なら、教師がやってることは子どものためになると無条件で信じられたのだろうが、今はそうではない。教師がやってることが子どもにとって有害であるような事例が次々と出てきている。そこで子どもの権利が主張されることになる。

 これは何も学校に限ったことでもなく、しかも日本に限ったことでもない。法学者の森田明さんは「未成年者保護法と現代社会」(有斐閣)の中で、「アメリカにおける子どもの人権論は、一九世紀末のchild saverたちの手で創出された法パターナリズムが二〇世紀後半に至って腐食して「慈恵的なおこがましさ」と化した時に、社会の根にあった自由・自律の伝統からの制度批判の結果生じてきたものである。」と指摘している。そして、そのような不信は、子どもの権利条約にも反映されたとも指摘している。

 「校則」に対し「子どもの権利」の側から批判が起きるのは、このような「保護への不信」が根っこにある。そのことを踏まえずに教師が何を言ったところで、信用ならない人間たちが何か言ってるよ程度にしか受け止められない(少なくともわたしはそうだ)。