ふらふら、ふらふら

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他人が尊厳ある存在であることを見失うとき~「彼女は頭が悪いから」読了

「ハニトラ」か?「犯罪被害の届出」か?の途方もない断絶

 夏前から読み進めては止まり、読み進めては止まりをしていた、姫野カオルコ「彼女は頭が悪いから」(文春文庫)をようやく読み終わった。複数の東大生が、他大学の女子学生に性暴力に及んだ事件があった(東大誕生日研究会事件)。姫野カオルコさんが、その事件についての報道を見て感じた違和感を、小説として綴った。事件に関する報道をきっかけに、作家ならではのイマジネーションをフルに働かせて作り上げられた作品だ。この小説の主なテーマは、「加害者」である東大生・竹内つばさらと、「被害者」である水谷女子大学の学生・神立美咲の間の途方もない断絶である。何しろ、竹内つばさら加害者たちは、神立美咲に残酷な行為を働いたあとに、美咲が恐怖で逃げたのを「ハニトラかますかもな、あのバカ女」などと平気で言ってのけるのだ。その後、刑事事件になっても、竹内つばさらは「災難」と考え、ついぞ罪悪感など持たない。加害者らと被害者は、同じ場所にいたのに、まったく見えているものが違う。この断絶はどこから生まれたのか。小説は、事件の数年前から始まり、それを描いていく。 

「正義」はいくつもある?

 ここで、竹内つばさらが、自分たちは正しいと思ってやっていることをとらえて、「正義の暴走」などと言い、あらゆる価値観を相対化する向きもいるかもしれない。このような立場からは、「絶対的な正しさなど存在しない」との結論が導き出される。しかし、そんな際限ない価値相対化が、いったい何をもたらすだろうか。犯罪を犯罪として処罰するのさえためらう社会である。しかも、竹内つばさらが、自分たちこそ正しいと考えた理由は、「絶対的な正しさなど存在しない」からではない。

他人が尊厳ある存在であることを見失うとき

 竹内つばさらは、被害者のことを、自分たちのほしいままにしていい存在と考えていた。そのことが、くりかえし、くりかえし、描写される。神立美咲が、尊厳を持った存在であることを、つばさらは完全に見失っている。これが、先ほど書いた「断絶」の中核にある。

 なぜ見失ったのか。見失わせる装置が、この社会のあちこちに用意されていた。それは、ジェンダー不平等であり、学校間の序列であり、生まれ育ってきた社会階層の違いであった。作品は、そのことを書いていく。それらひとつひとつは、わたしもよく目にするもので、どうかすると、それらの装置によって、わたしも誰かの尊厳を見失っているときがある。誰も無関係ではない。

 ここで、ふと、わたしの身の回りを見る。他人が尊厳ある存在であることを見失ったひとは、あちらこちらにいる。小説に描かれていたように、この日本社会には、他者の尊厳を見失わせるような装置が多数ある。

 例を挙げよう。ひきこもり当事者に、「山村での仕事」を「マッチング」したらいいと考える評論家。女性ひきこもり当事者を「マッチング」してほしいと述べる男性ひきこもり当事者。そう述べることを「言論の自由」として擁護する人。生きづらさについて高説を述べてはいても、性的マイノリティの権利には冷淡な人。その人は、「男ノリについていけない者など切り捨てる」と宣言してもいる。生活困窮者の生活を支えることを否定するYouTuber。と、挙げればきりがない。これらの人々は、ひきこもり当事者や、女性や、性的マイノリティの人々や、生活困窮者が、自分と同じ尊厳を持った人間であることを見失っている。見失わせるだけのなにかが、この社会にはある。

 そして、これらの人々も、それはわたしたちのことであるのだが、作中の竹内つばさらのように、批判を「災難」と捉える。誰かの尊厳を見失い、冷酷にふるまうのは、そんなに難しいことではない。

「被害者」が通う大学の教授が示した「道筋」

 さて、そんな物語の最後のほうに、作者は、被害者が通う水谷女子大学の教授を登場させ、一つの道筋を見せる。この教授は、誰からも顧みられていなかった神立美咲の痛みに目目を向ける。加害者家族に、神立美咲の痛みを我がこととして体験してみてはどうかと言う。それに対し、加害者家族は「なんという屈辱を」と怒るだけで、自らの子どもがした行為に罪悪感など一切持たない。自分の痛みには敏感でも、他人を踏みにじることは平気なのだ。他人の痛いのは百年でも平気だから。これも現実にあるある。先ほど挙げた、他人が尊厳を持った人間であることを見失って他人を痛めつけるひとも、自分の痛みは声高に主張する。

 それでも、実際に踏みにじられ、痛めつけられている誰かの尊厳に「誰かが」目を向けること(それをアドボカシー活動と呼ぶのだろう)が、尊厳を見失わせる社会構造への抵抗になるのではないか。そんな道筋を作者は見せた。

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