ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「カイワレ族の偏差値日記」に見る中流家庭のハビトゥス

 ずいぶん古い本の話である。村崎芙蓉子「カイワレ族の偏差値日記」(鎌倉書房、1987年)の話である。著者のお子さんが高校受験に臨んだ一年間のことが記されている。村崎芙蓉子さんは、この本を書いたことがきっかけで中央教育審議会の委員になった。

 この本の「長いあとがき」で、村崎芙蓉子さんは、子どもを受験勉強に駆り立てた理由について書いている。「いい学歴」を目指すこと以外に、子どもを自立させる術を見出せなかった、だから「いい学歴」を身に着けさせるために受験勉強に駆り立てたというような趣旨のことが書かれていた。その「長いあとがき」を読みながら、ああ、医師をやってる人はこのような考え方を持つのだなと。そんなことを思った。

 この「子どもを自立させるために「いい学歴」を目指して受験勉強に駆り立てる」のは、中流階層ハビトゥスがもたらしたものと言えよう。わたしの実体験で言うと、このようなハビトゥスを共有していない人たちもそれなりにいた。何も普遍的なものではない。

 そこで唐突に「ひきこもり」についての話。子どもに「いい学歴」を得させて、子どもを「自立」させるのを当たり前と考える価値観を持っている階層の価値観から立ち上がってきた概念ではなかろうか。同じような生活のしづらさを抱えていたとしても、中流家庭に浸透しているハビトゥスに縛られない人たちは、その生活のしづらさに別の解釈をするのではないかしら。おそらく、「引き出し業者」に依頼するのも、中流家庭が持っているハビトゥスに従った結果ですよ。そして、「ひきこもり」をめぐる記述のほとんどは、中流家庭のハビトゥスによって立っている。そこでは、異なった階層の人々は不可視になっている。異なった階層の人々が不可視になっていること、中流家庭のハビトゥスが支配的であることの問題点は別にあるのだけど、それはそのうち書くかもしれない。