ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「生きづらさ」とはだれにとってのなんなのか

 最近、「生きづらさ」とはいったい何なのか、疑問ばかりが膨らんでくる。わたしが強く疑っているのは、一家の長として稼ぎ手になれないことを「生きづらさ」と呼んでいるのではないか。しかし、それって、家族を支配するためのコスト(平山亮「介護する息子たち」勁草書房、2017年)で、生きづらさでもなんでもない。

 「生きづらさコミュニティ」の人たちが、南関東中流家庭に生まれ育ったシスヘテロ日本国籍男性である「自分たちの内輪」のことしか考えていないように見えてくる。
 「生きづらさ」についてもっともらしいことを言いながら、トランスライツに関して、「餓死しなきゃそれで充分」などと冷酷なことを言う人。「生きづらさコミュニティ」における暴力について否定的なことを言いながら、自身は犯罪予告で警察に厳重注意された人と手を組む人。「内輪」からソトへの犯罪予告は暴力ではないが、ソトから「内輪」への批判は暴力だなどと考える人。等々、「内輪」にいる人たちの「特権」(と言っていいだろう、もう)の擁護にしか関心がないような人たちばかり。
 そんなコミュニティと関わるのがどんどんダルくなっている。そうは言っても、生きづらさコミュニティの人の考えを、何らかの形で議事録に残しておきたいのではあるが。