ふらふら、ふらふら

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「スポーツマン」以外を排除しかねない、差別と暴力を内包した「スポーツ」

 わたしが中学生の時のこと。学年末に、生徒の発案で球技会をした。別に勝敗の点数をつけることもなく、レクリエーションで球技を楽しむ会だ。レクリエーション目的だったにもかかわらず、しばらくすると男子だけで勝手に盛り上がり、女子は蚊帳の外。蚊帳の外に出された女子は女子だけで別の球技をしていた。この時、男子たちは明らかに女子を排除していたわけだが、当の男子たちにはその自覚はなかっただろう。わたしは男子の群れにも女子の群れにもどちらにも入れず、何となく外からぼんやり見ていた。

 その年、長野でオリンピックとパラリンピックが開かれた。そのころの朝日新聞に、オリンピックの金メダリストとパラリンピックの金メダリストでは得られる賞金の額が違う、これは差別だとの論考が掲載された。

 そんな風景を今思い返してみると、スポーツは差別を内包しているように見える。「障害者」や「女性」を差別し、排除し、「スポーツマン」を標準として出来上がっているのが今のスポーツだ。標準は「スポーツマン」なのだから、「障害者」や「女性」は別建ての場でスポーツをすることになる。ちょうど、あの時わたしがいたクラスのレクリエーションのように。

 「スポーツマン」を標準としてできあがった「スポーツ」は、暴力をも内包している。よりよき「スポーツマン」に育てようとする営みは、それ自体が暴力だ。「スポーツマン」以外の存在を許さないという暴力だ。それは、「しごき」「体罰」などの形で表面化する。どこぞの高校では、生徒が嘔吐するくらいにきつい体育の授業を行っていると聞くが、これも「しごき」と名づけていいだろう。

 スポーツのジェンダー差別に関して、もう少し別の角度からも検討しよう。学校でスポーツをするとき、たいていは体形がよりはっきりとわかる服装になる。これによって、そのひとのジェンダーをよりはっきりと際立たせる。ジェンダーをはっきりと際立たせることによって、「見る側」と「見られる側」の力関係を作り出した。これは水泳の授業で顕著で、男子たちは女子の身体の「品定め」をそれとなくしていた。余談だが、わたしは「見る側」に立つのが嫌で、水泳の授業の日はそもそも登校できなかった。このように、ジェンダー差別、それに基づく暴力をも内包しているのがスポーツだ。

 そんなの当たり前じゃないか。そんな声が聞こえてきそうだ。「スポーツマン」と「スポーツマン」以外のひとが一緒にスポーツをするなんて危険だ、そんな声も聞こえてきそうだ。ここで、考えてほしい。わたしが中学校に入学する少し前まで、ハンセン氏病は「らい」と呼ばれ、「らい予防法」のもと、「らい療養所」で終生生活するのが「当たり前」だった。車いすを利用しているひとは、付添人なしでバスに乗れないのも「当たり前」だった。統合失調症のひとはこどもをもうけないのも「当たり前」だった。何なら強制不妊手術も「当たり前」だった。今「当たり前」であることは、差別でないことを意味するものではない。

 最近、ネット上でヘイトまで浴びせられている、女子スポーツへのトランス女性の参加。トランスヘイト側の言い分を聞いていると、「それってもともとスポーツに内包した差別・暴力だよね」なんてことがほとんどだ。今さら何を言っているのか。

 では、あたらしい「当たり前」をどのように作るか。そこまでは、わたしも考えがまとまっていないが、自由すぽーつ研究所の「トロプス」の実践は参考になる。NHKの番組「バリバラ」でも、障害のあるひとが楽しめるスポーツを四苦八苦しながら考案する様子が放送された。このような実践が、ごくわずかながらも存在する。そのことに希望を持ちたい。