ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

橋本紡さんが「器とかキャパシティとか」と書いたものを知ることは大切だ

 わたしが中学生のころ、それなりに「成績が良い」と見られていた。何なら、県立浦和高校に行くのだろうとさえ見られていた。

 確かに、授業に出てさえいれば、授業の内容の七割くらいは理解できたのだから、その見方はあながち間違ってなかったのだろう。そうは言っても、わたしは不安でいっぱいいっぱいだった。そうして追い詰められ、やがて、自分は学年一の劣等生だとさえ思い詰めた。それで、授業に参加できなくなり、不登校になった。

 あの時、もう少し自分のことを客観的に見て、自分の限界ってものを知って、「メンタル崩したから歩いて通える近所の高校で3年間のどかに楽しく過ごすよ」と言うことができていれば、少なくともわたしの学歴はもう少しましだった。わたしの10代・20代の生活も、今よりはましだっただろう。自分の限界も考えず、高い目標を達成できないとダメだとひとりで思い詰めて、結局何も達成できなかった。

 高い目標を追い求めるのは悪いことばかりではないが、それでも過ぎたるはなお及ばざるがごとしとのことわざを思い出すのは悪くない。追い詰められるくらいの高い目標に立ちすくんで何もできなくなるくらいなら、とりあえず何かができるくらいの低い目標に設定し直す方がマシだ。そうすることによって見えてくる幸せはある。

 と、そんなことを、わたしは中学の担任から聞かされていたことを、最近になって気づいた。遅い。遅すぎる。

 教科学習、それも受験準備用のそれを唯一の価値とする考え方は、あまりにももろい。その教科学習の世界で追い詰められたら最後、存在すら否定されてしまう。髪型や下着の色まで規制して、教科学習に追い込むのは、果たして当の生徒にとっては幸福なことなのでしょうかね。長期的な視点で見たとしても、だ。

 橋本紡さんが著したライトノベル半分の月がのぼる空」に、こんな話がある。主人公の高校生は、東京に行きたいと思っていた。ところが、大切なひとと出会った。その大切なひととの限られた時間を過ごすために、東京に行くのを諦め、今住んでいる伊勢に残る決心をする。同級生たちが東京や京都などの大都会に出ていく中、自分は一人この田舎町の伊勢に残る決心をする。皆が追いかけるものを諦め、自分なりの幸せを追い求めようと決心する主人公をわたしはとても素敵だと思う。

 そんなことを、つらつらと考えた。考えるきっかけになったのはこのポッドキャスト。 お時間のある方はぜひ聴いてみてほしい。