民主的な手続きをおろそかにしてきた政権ってのは、いざという時にとても弱いなと感じる。有事になったら一致団結なんて、そんなことはなくて、平時だったころの関係がむき出しになるだけ。
これまで、安倍政権は、「俺たちに任せておけ」式に、情報公開にも熱心ではなかったし、お友達に便宜を図ったのではないかとの疑惑にきちんと答えてこなかった。そして、そのツケを一気に払う時がやってきてしまった。残念なことに。
この国自体も、わたしたちの人権を守ることにはあまり熱心ではなかった。公衆衛生の分野でも、強制的に受けさせられた予防接種による副反応で障害を負っても、「お気の毒様でした、お国のために我慢してね」と言わんばかりに、涙金すら出さない時代があった。それも日本国憲法施行後のことだ(今はそれなりの額の補償がされる)。「らい予防法」による強制隔離と、それによる筆舌に尽くしがたい人権侵害も存在した。公衆衛生以外の分野でも、結構人権は無視してきた。人権をあまり重く見ないのは、この国の伝統とさえ思える。
最近では、教育も、政府の言いなりになる子どもを育てようとしているらしい。そのことを報告した本を読んだ感想は前に書いた。
https://note.com/syou_hirahira/n/n9f2432b0f47d
そうやって政治を運営してきても、何もないときはそれなりに回る。何か起きた時に、初めて問題があからさまになる。自分の命を守ってくれそうにない政府の言うことを、誰が素直に聞くものか。かくして、政府が何を言っても、国民にそっぽ向かれることになる。その結果起きるであろう犠牲は、考えたくもないほどである。たまたま、今回はうまく行ったとしよう。わたしもそのことを望んでいる。しかし、わたしたちは、子育てする親のことをあっさりと切り捨てるところを目の当たりにしてしまった。子どもを産み育てることを「リスク」としてのみとらえるようになった人は、おそらく百万の単位でいるはずだ。その結果は、今よりももっと激しい少子化である。
https://air.ap.teacup.com/supert/3518.html
このブログ主は、「日本人は真面目で被統治能力(governability)に優れていますから、なんとかしてくれるのです。それをわざわざかき混ぜる必要はありません。」なんてのんきなことを言っているけど、その被統治能力の高さは、別のところでも遺憾なく発揮されることになるだろう。その結果は、おそらく、要介護状態になっても誰も介護してくれない、という現実によって思い知らされることになる。
民主主義国家には、民主主義国家なりの武器がある。それも強力な武器だ。ひとびとの声をよく聞き、それに応えることを繰り返すことによって、国民の支持という極めて強力な武器を得ることができる。それは、独裁国家の強権に勝るとも劣らない武器だ。だが、今の安倍政権は、その強力な武器を持ち合わせていない。ひとびとの声を広く聞いてこなかったから。2009年、歴史的な政権交代により、首相になった鳩山由紀夫さんは、就任記者会見でこんなことを言っていた。
そのためには、今までのように、国民の皆さんもただ1票を投じればいいんだという発想ではなく、ぜひ政権に様々ものを言っていただきたい。政権の中に参画していただきたい。私たちが皆様方のお気持ちを、いかにしっかりと政策の中に打ち出していけるか否かは、国民の皆さまの参加次第にかかっているとも申し上げていいと思います。
その後の鳩山政権の行く末について、わたしは論評を差し控えるが、わたしたちが政治に対して持つべき基本的な姿勢を端的に述べた部分だ。どの党が政権を取ったとしても、このことは変わらない。そして、政権はわたしたちの声に応える義務がある。そのやり取りによって、ひとびとの支持を得、そして有事には「ひとびとの信頼」という強力な武器を持つ。そのようなプロセスを省くと、有事にとても弱い政権ができる。
もっとも、わたしたちに反省すべき点がないとは言わない。わたしたちは、決して政党や政権に参画することには熱心ではなかった。わたしだって、立憲民主党のサポーターではあるが、なんやかやと政党の活動に参画してこなかった。お金は出しても、口は出してこなかった。みんながそうすることによって、野党が弱くなってしまったのは反省しなければならない。
もうひとつ。わたしたちが何か意見を持つ時に、情報はとても重要だ。だからこそ、情報公開制度は民主主義の根幹を支える制度でもる。政治的な意見だけではない。日常の、ありとあらゆる行動にも、情報は極めて重要な意味を持つ。このような有事の時なら、なおさらだ。そのほかに、わたしたちが持つ「知る権利」に応える機関として重要なのが、公共図書館だ。
だが、日本では、情報を得るためのツールとして図書館を使うという人は、それほど多くはない。わたしは、SARSコロナウイルスが屋外で飛沫感染するかについて記した文献がないか、埼玉県立図書館にレファレンスを依頼した。そうしたら、このご時世のこと。中一日で回答が返ってきた。紹介された文献を、近所の図書館でILLの依頼をして、次々に手元に来ているが、その中のひとつに、非常に参考になる記述があった。「公共のビル、学校、開放空間での感染伝播の報告は今のところ見られない」と(「SARS いかに世界的流行を止められたか」WHO西太平洋地域事務局著、日本語訳は結核予防会刊、非売品)。図書館を、わたしたちがもっと情報を得るための場所として使いこなしていれば、たとえば今流れているデマの大部分は食い止められただろう。デマに右往左往するのも、図書館を単なるレクリエーションの場としてしか使ってこなかったことのひとつの結果だ。
もちろん、図書館がわたしたちの知る自由に十分に応えるには、それ相応の予算が必要になる。今の図書館の予算は、はっきり言えばあまりにも足りない。レクリエーションの場のひとつならば、確かに今の予算でいいんだけど、わたしたちの知る権利を保障する重要な機関として位置付けるなら、もっと図書館に予算をつけたい。多くの人が、豊富に情報を得ることは、どんなときにも役に立つ。それこそ、民主主義を支える重要なインフラだ。
「トイレットペーパーが不足する」なんてデマが流れ、それに多くの人が流され、あちこちのドラッグストアでトイレットペーパーが実際に品薄になった状況を見て、ふと、そんなことを考えた。
追記・2009年にされた「指摘」
「公共機関・企業のための 実践 新型インフルエンザ対策 住民をパンデミックから守るには」(橘とも子・櫻山豊夫・前田秀雄共編著、ぎょうせい刊)には、次の一節が。
人を集めて行う事業、映画・演劇・コンサート、スポーツやイベントなどの規制も必要です。しかし、これらは経済行為でもあり、事業者が一方的に損害を受けるようでは規制がうまく機能しません。天災時のように会場費の支払い免除をはじめ、何らかの非常用システムを適用しなければならないでしょう。この面でも政府などの公の介入が必要です。(第2章第10節・「社会機能・インフラの管理」濱野健)
この本の刊行は2009年4月30日。ちょうど、新型インフルエンザが日本で流行する直前に出された本。その後、2009年新型インフルエンザ対策の成功に酔いしれ、この指摘はついに生かされることはなかった。この指摘自体、目にした人がどれくらいいるのかはわからない。ぎょうせいから出ていることを考えると、行政の人たちはそれなりに読んだと期待しているが。