ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「新しい」が覆い隠す「喪失」

ここのところ、ものすごくもやもやしている。「新しい生活様式」とか、その背景にあるように見える「ナッジ」とかに。

「新しい生活様式」と銘打って、その生活様式を「無条件によいもの」、今までの生活のありかたを「無条件に悪いもの」と印象付けてるように見えてしまって。コロナ禍によって、生活のありかたは大きく変わってしまった。それによる「喪失」はとても大きいものなのだけど、「新しい生活様式」なる言葉は、「喪失」を悲しむことすら許してくれない。

今年の春にやたら口にされた「オンライン帰省」も同じ。さもオンラインが新しいスタイル、これからのニューノーマルと「よいもの」のようにしか語られていないのが許せない。わたし個人のことを言えば、仕事で会ってくれる人と、同居の家族以外と直接会うことは今年3月以来一切ない。それこそ今はやりの「オンライン」やら「電話」では結構話してはいるが。それを「新しい生活」として、さも何の喪失もなかったかのように、「喪失」をぞんざいに扱われるのは我慢ならない。

「喪失」をぞんざいに扱っているように見える例を3例ほど紹介する。ひとつめはこころのかまえ研究会。

http://kokoronokamae.umin.jp/archives/state-of-emergency/

わたしなんてとっくの昔に職業上の接触以外の接触を断っているのに、そしてそういう人はたくさんいるだろうに、そういう人も含めて一律さらに80%カット、その代わりに電話やネットでコミュニケーションを取ればいいじゃないと。あまりに不平等である。

2例目。北海道大学のNo More Corona プロジェクト。その中の「No More Corona なテンプレ集」。

http://no-more-corona.com/no-more-corona%E3%81%AA%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E9%9B%86/

このなかの「Case4.【より素敵な旅行にするテンプレ】」がね。毎度わたしは批判の対象にしていることから、そろそろ耳にタコができた人もいるかもしれないが、懲りずに書く。「人生100年時代。楽しみは後にとっておいても良いのでは?」と、卒業旅行を社会人になってからに延期することを提案。「社会人になったら集まるの大変だよ」「そうだけどさ、社会人になってからの方が豪華に旅行できるよ」と、さも社会人になってからのほうが旅行を素敵にできるかのように語って見せた。実際には働き始めて安定収入ができたとしても、時間がなければ旅行なんてできないし、そこにも確実に「喪失」はあるんだけど、それには向き合わない。覆い隠す。「友人や家族との関係を壊すことなく、発想次第で感染リスクを抑えながら楽しむ方法があることを伝えたいと考え企画した。」と、プロジェクトの報告書にはあるので、多分、「喪失」には最初から向き合うつもりはなかったのだろう。このぞんざいさにわたしは引っかかる。

3例目。実は、これこそが、わたしがこのnoteを書こうと思った最大の理由なんだけど、峰宗太郎先生のツイート。

https://twitter.com/minesoh/status/1280633661256163328

あまりにためらいもなく「勝ち組」という言葉を使ってらっしゃる。まるで、「喪失」と感じるのを悪いことのように考えているかのようだ。「喪失」を、ものすごくぞんざいに扱っている。

一連の流れの中で、注目された北海道大学の西浦博先生。西浦博先生は、コロナ対策が「喪失」を生んだことを自覚しているが、「中央公論」に掲載されたインタビューの内容がいただけない。そのまま原文を引用する。

「これから、どんどん生活が変わっていってその中でいろんなものが戻ってくる中で、文化活動とスポーツ活動は画期的なランドマークになると思っています。だから率直に皆さんに喜んでもらいたいと思うんです。例えばプロ野球Jリーグが、無観客でも私たちの生活の場面に戻ってくるということ。そういうのは、全員で勝ち取った一つの勝利になるんですよね。だから、政治的な面では諸説入り交じるんですけれども、あくまでその文脈で言うと、世界中のアスリートが真剣なまなざしで、人生を懸けて戦うオリンピックも、この感染症に関して人類が勝ち取るものとして、とても大きなことだというのは間違いないです」

数々のものを「喪失」したことは自覚していても、そこで出てくる「オリンピック」。オリンピックを開催することで皆さんに喜んでほしいと言う。わたしは、もともとオリンピックなんか関心も興味も何にもないから、オリンピックが開催されたってなにも感じないんだけど、そのオリンピックを「この感染症に関して人類が勝ち取るものとして、とても大きなことだというのは間違いないです」と語る。なんか、オリンピック開催で、わたしの「喪失」をチャラにしてしまおうとしているのではないかと思えてしまった。さらには、「オリンピック開催に喜ばないのは非国民」とでも言われているかのような気分になってしまった。

わたしが大切にしていたものはたくさんあって、でもそれはコロナ対策の名の下に犠牲にして、その埋め合わせがオリンピック開催。オリンピック開催すれば全員が喜ぶとでも思ってるのだろうか。あるいは、オリンピック開催に喜ばないのは非国民とでも考えてるのだろうか。どちらにしても、わたしがオリンピック開催に反対する理由がひとつさらに増えた。もともとはオリンピックなんて勝手にやってればと思ってたんだけど、オリンピックが、わたしの個人的な価値を踏みつぶし、国が決めた価値観を押し通すことを正当化する道具に使われるのなら、そんなオリンピック開催には断固として反対する。

と、つらつらと「喪失」について書いてきた。どこまで届くかは知らないけれど、あまりにも「喪失」がぞんざいに扱われていると感じたので書いた。

〈付記〉

 峰宗太郎先生が「喪失」というものをぞんざいにしていると考える材料はもう一つあったんだけど、こっちはむしろ社会的な何かだと感じたので、こっちに書く。

https://twitter.com/minesoh/status/1280987305365303297

https://twitter.com/minesoh/status/1280964481904828418

https://twitter.com/minesoh/status/1280968622429466626

ある文化や仕事がなくなることの社会的な影響に対して、あまりにも無頓着。ICT化によってさまざまな職業がなくなった。その中には書店主という職業もある。いや、正確には、今もあるんだけど、多くの書店が廃業し、書店主は仕事を失った。その代わりに増えたのは、巨大ネット通販企業の倉庫で時給で働く人たち。これまでなら書店主としてそこそこの生活をできていた人たちが、今や巨大ネット通販企業の倉庫で時給で雇われる仕事にしか就けなくなった。これまでなら書店経営者が子どものためのおもちゃや参考書を買うために回っていたお金が、今やどこかのCEOのプライベートジェットの排気ガスになって消えていく。これが果たしていいことなのか。そんなに肯定的にとらえていいことなのか。わたしはそうは思わない。