元学校の先生だった方が、自分のブログで、校則の目的の一つとしてこんなことを書いている。
学校給食はそのような理念のもとに始められましたし、制服が長く存在価値を持っていることにも同じ意味があります。弁当の中身によって生徒が無用な劣等感を持つことがないように、有名ブランドや高価なコートが買えなくても安心して学校に来られるように、そういった配慮が校則には盛り込まれているのです。
https://air.ap.teacup.com/supert/3378.html
「みんな同じ」にすることで、平等に学校に来られるようにする。実にありがたい配慮ではないか。でも、「みんな同じ」が「平等」を意味すると考えるのは、早合点。
もともと髪の毛の色が黒ではなかった生徒を、他の生徒と「みんな同じ」にせよと迫って自主退学させられた事件がかつてあったし、近年もあった。いったいこれのどこに「平等」があるのだろう?
「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」のメンバーが文部科学省に提出した要望書に、次のような提言が含まれていた。
知的障害や身体障害、宗教や出身国、貧困家庭などの様々な状況や属性によって社会的な排除を受けやすい当事者がいる。そのため「差別を生む校則」をなくすこと。
https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/black-1
「みんな同じ」を強制するために、「みんなと同じ」になれない子どもや若者が、学校から排除されている現実がある。それでも、「みんな同じ」を守ることは、すべての子ども・若者が学校に行けるようにする条件整備なのだと強弁するだろうか?