悪はあまりにも凡庸だ。だれもが加害者になり得る。東京シューレ性加害事件の加害者も、ルドルフ・フェルディナント・ヘス(アウシュヴィッツ強制収容所元所長)と同程度には凡庸な人間だったのではないか。ふとそんなことを思わせる書物の一節を見つけた。
世人は冷然として、私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。――けだし、大衆にとって、アウシュヴィッツ司令官は、そのようなものとしてしか想像しえないからである。そして彼らは決して理解しはしないだろう。その男もまた、心をもつ一人の人間だったこと、彼もまた悪人ではなかったこと、を。
―「死の記録 : アウシュヴィッツ収容所長の手記」
ルドルフ・ヘス著・片岡啓治訳、弘文堂
ルドルフ・フェルディナント・ヘスは、100万人を大量殺戮する「死の工場」の所長でありながら、休暇になればこどもと一緒に遊ぶ人間であった。休暇にこどもを遊ばせることと、100万人の大量殺戮は完全に並行して進めていた。悪は、その程度には凡庸だ。
この一節を見て想起したのは、東京シューレで働いている・働いていたひとのことだ。あれだけの性加害事件に直面しながらも、「こどもの人権」を旗印に活動を続けていられた。今も続けている。人間はあまりにもやすやすと悪魔になる。その、あまりの悪の凡庸さにどう向き合えばいいのか。わたしはまだ言葉を持たない。