アウシュビッツで「死の工場」を統率したルドルフ・フェルディナント・ヘスは、任務の傍ら、こどもたちをバカンスに連れて行ったという。決して、血に飢えた悪人ではなかった。任務に忠実であろうとする官僚であるにすぎなかった。
わたしが中学3年生の時のこと。給食の時間に教室から離れていた生徒がいた。担任は、その生徒の給食を廊下の床の上に置くように指示した。わたしの同級生の女子生徒は、その指示に従った。そのとき、わたしは、教室から離れていた生徒のことを冷笑し、傍観していた記憶がある。少なくとも、良心の疼きは感じなかった。食品由来感染症の大規模なアウトブレイクの記憶はまだ生々しく残っていたころだ。
ホロコースト以後、いくつかの心理学実験が行われた。それらの実験は、ひとは権威に服従し、いともたやすく残虐になることを示した。それくらいに悪は凡庸だ。
だからこそ、教師は、「教育」なる大義の下に、生徒を平気で骨折させ、あまつさえそのことを道徳教材にさえしてしまう。これはわたしが体験しなかったことではあるが。
「教育」における悪の凡庸さは、学校の専売特許ではない。フリースクールでもある。そのことを示すもっとも典型的な事件は、東京シューレ性暴力事件だ。「東京シューレを守る」「身内感覚」なる「大義」(というほどのものでもないかもしれないが)の下に、虫も殺さないような善良なひとたちが平然と残酷な行為に手を染める。わたしは、一度ならず東京シューレに行ったことがあって、それは大人としてなのだけれども、その時話したシューレスタッフは、これっぽっちも性暴力事件が起きたことなど感じさせなかった。良心の下で実践をしているように見えた。そんなひとたちが、性暴力事件を引き起こし、ロクな検証もせず、二次加害も起こしている。
悪はあまりにも凡庸だ。よって、わたしたちは、次のことばをしっかりと焼き付けなければならない。
「犠牲者になるな。加害者になるな。そして何よりも、傍観者になるな。」
―イェフーダ・バウアー