ふらふら、ふらふら

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共同親権推進派が考えるほど、日本法は「親による保護の権利」を信用していないし、日本法のこの態度はリーズナブルだ

 ちょっと前にこんな投稿を見かけた。

 「こどもの人権」を考える側からの共同親権推進の意見。この意見は、しかし、一定の前提を置いている。それは、「双方の親から養育を受けることこそがこどもの権利である」との前提である。この前提をもう少し敷衍すると、「親の信念に従って教育を受けることがこどもの権利である」との意見になろうか。ここで述べられた「こどもの権利」は、正確には「親による保護を受ける権利」と述べたほうがより正確だ。このような思考方法は、ヨーロッパなどでオーソドックスなものであった(だからこその共同親権!)。そして、このような思考方法の下では、親がこどもになす教育は、虐待のような極端な場合を除いて疑われることはない。親による保護をほぼ無条件で信頼しているともいえる。

 ところが、そのような無条件の信頼が見事に砕かれた。いうまでもなく虐待の激増が原因だ。もはや、ヨーロッパの法は「親による保護」を無条件で信頼することができなくなった。それは国際条約にも反映されている。1966年に採択された市民的及び政治的権利に関する国際規約では、「この規約の締約国は父母及び場合により法定保護者が、自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する」(第18条4項)と定めていたものが。1989年に採択された児童の権利に関する条約は、「締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する。 」(第14条第2項)となった。「権利を行使するに当たり」「その発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利」にまで後退した。もはや、自己の信念に従って教育を行う自由は保障されない。こどもは、「保護を受ける権利を有する存在」から「自律して権利を持つ存在」へと大きく振れた。

 日本法はこれとはかなり異なった思考方法をとってきた。たとえば、こどもに教育を行う権利について争われた事件で、最高裁大法廷は「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられている」と述べている(昭43.6.26、刑集30巻5号615頁)。このような考え方は、先に述べたような、「親の信念に従って教育を受けることがこどもの権利である」との意見とは大きく異なる。親や教師による教育が「子どもの学習する権利」に対応しているかを常に問うことが求められている。これは親による養育一般にも言えることだ。ヨーロッパの伝統が親による保護をほぼ無条件で信頼しているのとは対照的だ。このような日本法の法制は、「子供は双方の親から愛される権利を持ってる」のかもしれないが、「子供は双方の親から養育を受ける権利を持ってるし、誰もそれを奪うことはできない」「双方の親から養育を受けることこそがこどもの利益であることは明白」とまでは言い切らない。

 わたしは、このような日本法の思考方法を、極めてリーズナブルなものと考える。「共同親権」を推進する側が無言のうちに前提にしている、「双方の親から養育を受けることこそがこどもの利益であることは明白」との前提をわたしは共有しない。それぞれの個別の事情に即して、「親による保護を受ける権利」と「こどもの人権」を考量しながら判断していくのがもっともよいと考える。その上で、現在国会にて審議されている法案は、「親による保護を受ける権利」の側に寄り過ぎていて、「こどもの人権」への配慮が不足しているとわたしは考える。法案を起草したひとが考えるほどには、「親による保護」への信頼も持っていない。現在国会で審議されている法案には反対だが、とはいえ、婚姻関係にないひとが共同で親権を持つことがこどもの利益になる事例もある。その最も良い例は、改姓を強制される婚姻制度を利用することなく事実婚状態にあるカップルである。このような事例でまで、単独親権である必要があるとは言わない。現に共同養育を行っている実態があって、それがこどもの利益に反していないことを家庭裁判所が確認した場合に、婚姻関係にない双方の親を親権者とするくらいの控えめな制度ならば、わたしも賛成できる。法律は人間関係を承認することはできても人間関係を創設することはできない事実を踏まえると、わたしの案は妥当なものではないか。

参考文献

森田明著「未成年者保護法と現代社会―保護と自律のあいだ―」第2版,有斐閣,2008.4.