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「親の権威」が無条件に「よきもの」とされていた国の「共同親権」を持ち込むことの無謀さ

 今日(2024年1月30日)、法制審議会の部会が「共同親権」の導入を盛り込んだ親族法改正案要綱を答申した。ちょっと待ってよ、とわたしは言いたい。推進派は欧米では共同親権が当たり前などと言いますが。そもそも「親権」に関するとらえ方が欧米と日本では大きく違うことを無視して「欧米では~」と言うのは無意味だ。

 欧米では、「親がこどもを保護する権利」は無条件に「よきもの」とされてきた。「親がこどもを保護する権利」は、こどもを適切に保護するものであるから、親に服従することによって、こどもは健全に育つと考えられてきた。ここではこども自身の権利は考慮されない。「親の権利」のみが考慮される。「親の権利」を保護することこそが、こどものためと考えられている。そのような伝統の中では、「共同親権」は、素直に受け入れられる。ところが、その西欧でも、虐待が激増し、夫婦の多くが離婚する、そのような現実を前にして、「親がこどもを保護する権利」なるものへの信頼はすっかり消え去ってしまった。

 そのことを示す最も典型的な例を条約から拾ってみよう。市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)の第18条。

 1 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。

2 何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。

3 宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。

4 この規約の締約国は父母及び場合により法定保護者が、自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。 

 自由権規約が採択された当時は、父母などが「自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する」ことこそがこどもの権利を守るものと考えられていた。それから23年後の1989年に採択された児童の権利に関する条約第14条は、次の規定を置いた。

1 締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する。

2 締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する。

3 宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。

 この、1989年に採択された児童の権利に関する条約では、もはや、父母が自己の信念に従って宗教教育を行う自由は認められていない。ただ、「発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務」のみが認められているのみである。父母などの権利は大きく後退した。この背景にあるのも、欧米、とりわけ米国において、「親がこどもを保護する権利」に対する信頼が地に落ちたことが挙げられる。森田明氏の表現を借りれば、「慈恵的なおこがましさ」となってしまった。

 そのような現実を前にして、「親がこどもを保護する権利」が無条件によきものとされていることを前提とした「共同親権」を持ち込むことの無謀さ、あるいは蛮勇さは、強調してし過ぎることはない。

 ところで、日本では、「親がこどもを保護する権利」はどのようにとらえられているか。そのことを最も端的に表した最高裁判決がある。

換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。

1976年5月21日最高裁大法廷判決、 刑集第30巻5号615頁。

 これは教育をほどこす権能について、最高裁大法廷が示した判断である。「旭川学力テスト事件」と言えばピンとくる方もいらっしゃるかもしれない。この判決で最高裁は、こどもに教育を施す権能(権利という語を使っていないことに注意)は、こども自身の権利を満たす責務と捉えられていると指摘している。欧米のように、「親がこどもを保護する権利」を無条件に信頼しているわけではない。学校教育に関する事件であるから「学校がこどもを教育する権利」とも言えようが。ともかくも、日本の法律は、こどもが親に服従することを「無条件によきこと」とはしていない(「教育を施す者の支配的権能ではなく」)。日本の法律では、「親がこどもを保護する権能」は、「こども自身の権利」を満たすためのものとされているのであると、最高裁は指摘しているのである。ここで最高裁が示した考え方は、非常に優れたものとして評価できる。

 さてさて、共同親権の話に戻ろう。Webで見られる共同親権推進派の言動の少なくとも一部は、欧米流の「親の権利」という考え方に基づいていて、それはすなわちこどもに教育や保護を施す者の支配的権能と考えているのである。この考え方、日本の法律が採用してきた「こどもを保護・教育する権能」という考え方にもそぐわない。すでに欧米流の「親の権利」に対する信頼が失墜したことは指摘したが、この2つの理由によって「共同親権」を無理やり(としか見えない)持ち込むことは蛮勇であると指摘できる。果たして、その「共同親権」の主張は、こどもの権利に対応したものだろうか?そこに立ち返って再考いただきたい。

 もうひとつ。「共同親権」が問題にされるのは、父母間の関係が徹底的に険悪になってからであろう。法律は、険悪な人間同士の関係を取り結ぶ能力を持たない。法律が何をどう定めようと、険悪な人間同士が仲良くなることはあり得ない。その意味でも、今回の共同親権に関する法制審議会部会の答申は蛮勇と言える。すでに共同で育て合う関係ができている親子関係を承認するだけの法律なら、わたしも手放しで賛成する。そうじゃないでしょ、こどもと離れ離れになってしまったひとがどうにかこどもとの関係を取り戻したいと思って法律を作ろうとしているでしょ、そんなあなたの姿は単なるモラハラ加害者・ストーカー加害者に過ぎない。こどもをだしにして、自分の利益を貪欲に追求する醜い姿がそこにあるだけだ。

 法律、とりわけ親族法は、すでにある人間関係を承認することのみに専念しなければならない。

 最後に。この文章を書く気力を与えて下さった故・芹沢俊介さんにお礼を申し上げます。

我孫子市手賀沼の湖畔にて撮影した写真。一面に湖が広がっている。左の湖畔に釣り人がいて、右には船が浮いている。そんな、夕方の風景。

故・芹沢俊介さんが最後の日々を過ごした我孫子市の風景。手賀沼湖畔にて撮影。

参考文献

森田明著「未成年者保護法と現代社会:保護と自律のあいだ〔第2版〕」有斐閣、2008年。