ふらふら、ふらふら

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こどもが育つ環境が「商品」として「市場」で買うものとされるグロテスクさ

 宮下公園が「再開発」されミヤシタパークに変わったとき、炊き出しの食事を持って園内に入ろうとしていたひとが排除されてた。その排除を正当とする意見の中に、「清潔感のある服装と髪型で、剥き身の紙皿の上の飯じゃなくてちゃんと包装されてて、紙コップじゃなくてペットボトルとかなら排除されないんじゃない?」なんて意見があった(渋谷の宮下公園が生まれ変わった「MIYASHITA PARK」に賛否→なぜか入れてもらえない人もいる? - Togetter)。宮下公園を使用する権利も私的に購入するものになってしまい、権利を購入する金がない者は容赦なく追い払われる。

 この話、「多様な学び」をめぐるあれこれの話を聞いてて思い出したエピソード。今や(と言っても少なくとも20世紀終盤くらいから)、「学び」や「居場所」は、親が(とあえて書く)私的に市場から購入するものになっていて、購入できないひとは容赦なく排除される。その排除を、「みんな違ってみんないい」的な言説で正当化するグロテスクさ。ネグレクトも、「多様な学び」を「選択した」という論理に見事に回収される。教育機会確保法を作るときに大揉めしたが、そんな法律ができる前から市場化は始まってた。教育機会確保法は市場化した教育の現状を追認したにすぎない。「学校」が市場化していて、「学校」に合わないこどもは無理に来なくていいよ、ほらこっちにサブ市場(「多様な」「オルタナティブな」学び!)があるからと言われる。フリースクールの存在が教育の市場化を促しているのではなく、メインストリームの学校がすでに市場化してた。

 東近江市長の小椋正清氏の発言や、自民党埼玉県議団の留守番禁止条例はだいたい同じベクトルに並べることができる。そのベクトルとは、「こどもを育てるために必要なモノやサービスは親が自力で購入するもの」って思想のベクトルだ。自力で購入できない親はけしからん!って言ってるだけ。

 ちなみに、高齢者福祉の世界では露骨に市場化が進んでる。特別養護老人ホームはなかなか入れない一方で、高額の費用が必要な有料老人ホームはすぐに入れる。有料老人ホームの一部でも特別養護老人ホームに変えることができればあるいは特別養護老人ホームの入所待ちも緩和されただろうに。高齢者福祉の総量が足りないのではなく、高齢者福祉の分配を市場に任せた結果一部の金持ちに分配が偏った。

 宇沢弘文さんの「社会的共通資本」との概念に光を見いだしたいが、ここ数十年の歴史は社会的共通資本をどんどん商品にしていく過程だった事実はある。

日本基督教団和戸教会。教会堂の前には芝生の広場があり、自由に休めるようベンチが設置されている。ベンチが「排除アート」ではないことにも注目。

 この写真にあるような、「誰にでも開かれている空間」は、とりわけ東京のような巨大都市ではとても少なくなってしまった。あらゆる場所が商品として切り売りされ、市場で私的に売り買いするものとなってしまった。こどもの居場所や学びが市場で私的に売り買いする商品となってしまったことを嘆かわしく思い、誰に対しても開かれた場を維持している日本基督教団和戸教会の写真を掲載した。

続きのようなもの

syou-hirahira.hatenablog.com