今日、宮代町役場前のスキップ広場にて、ひきポス展示即売会をしていました。その際、たまたま通りがかった人から、要旨次のような意見をいただきました。
「ひきこもりは親の育て方や教育が悪い。社会に負担なんかさせず、家族の力で何とかするように」
当方も反論を続けましたが、最後は「細かいことはわからない」と、役場の方に行かれてしまいました。午後12時50分過ぎのことでしたでしょうか。その方へのお返事を、今ここで公表します。
「社会に迷惑をかけるな」は、容易に「社会に迷惑をかける者は死ね」との論に転化します
あなたは、ひきこもりの当事者は親の育て方などが悪かったのだから、家族などで何とかしろとおっしゃいましたね。確かに、あなたは、ひきこもり当事者は死ねとは言ってない。言ってないですけど、では、家族を頼れない当事者はどうしろと言うのでしょうか?結局のところ、社会に負担をかけるなとの論は、「当事者は死ね」と言っているにほぼ等しいのです。
「ひきこもり」が他人事だから、「社会に負担をかけるな」と言ったのではありませんか?
では、同じことを、がん患者に言えるでしょうか?「がん患者は、自分の生活習慣が悪かったのだから、家族などで何とかしろ」と。それは、家族などが治療費を負担できないがん患者は治療を諦めろと言うに等しいことではありますが。がん患者は自分の意思でがんになったのではないから、がん患者とひきこもりを比べるのは違うとおっしゃるかもしれませんが、国立がん研究センターによれば、男性のがんの53.3%は、生活習慣や容易に治療できる感染が原因でがんになったと考えられています。また、健康的な生活習慣を実践することで、男性で43%がんリスクが減少することが示されています。もちろん、生活習慣は自分自身で改善できるものです。それでも、がん患者とひきこもりは違うとおっしゃるのでしょうか?がんはあなたもなる可能性があるから社会が面倒見るべきと考え、ひきこもりは他人事だから社会に負担をかけるなとおっしゃったのではありませんか?
「社会に負担をかけるな」の先にあるのは、大量殺戮
「ひきこもりの当事者は死ね」と言う意見は、当然のことながら、優生思想そのものです。あなたが、それに等しいことを言ったのは、すでに論証したことです。そして、そのような意見は、障害者の大量殺戮を行ったナチスと、何ら変わるところはありません。マイケル・レーベンバウム「ホロコースト全史」(芝健介日本語版監修)の著者あとがきは、次のように記しています。
「ただ負担になるだけの」国民の大量殺戮は、現代国家にとって永遠の誘惑である。アメリカにも、そうした国民はいる。働けない老人、働こうとしない若者、仕事にあぶれた失業者、少数民族に多く見られる非常に貧しい人びと……。
「社会に負担をかけるな」という思想の蔓延は、「ただ負担になるだけの国民」の大量殺戮に行きつくのです。あなたは「高齢者は年金を積み立ててきたから違うんだ」と、おっしゃるかもしれない。あるいは、高齢者の年金は法律で決まっているとおっしゃった。しかし、それを言うなら、ひきこもり当事者が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利も、憲法25条に定められたものですし、そのために国が福祉を提供するのも、生活保護法という法律で決まっていることなのです。
だいいち、「法律で決まっている」ことを根拠にするのでしたら、その法律を廃止すれば、高齢者の大量殺戮もかまわないとの論になりますよね。実際、あなたは国が決めれば…と言いごもりましたが。
もちろん、そのような大量殺戮が非人道的なのは言うまでもありません。しかし、あなたのおっしゃったことは、まさにそのような非人道的な行為を正当とする意見なのです。
あなたも社会に支えられている
そして、忘れてはいけないのは、私たちみんなが、社会に支えられていることです。あなたは、「役場に用事があるから」と逃げるように立ち去りましたね。役場でどのような手続きをしたのかはわかりませんが、行政サービスを受ける手続きをしたのでしょう。行政サービスを受けるというのは、まさに社会に支えられるということそのものなのです。
また、このようなことを言ってあなたにご理解いただけるかどうかはわかりませんが、障害は個人の心身機能・身体構造と環境があいまって作り出している、とは世界保健機関の公式見解です。そのことは、「国際生活機能分類」をお読みいただきたいところですが、具体的な例で紹介しましょう。
例えば、車いすを使わなければ移動できない方がいらっしゃったとします。この方が電車に乗るときに不便なのは、必ずしもこの方の足が不自由なためではありません。都電荒川線のように、道路から段差なくホームに上がれるのなら、この方は電車を容易に利用できます。しかし、ホームに上がるのに階段しかないような駅だったら、電車を利用することに大きな障害があります。「電車に乗れない」状態は、社会環境もまた、そのような状態をもたらす原因になっているのです。
そもそも、あなたは、たまたま多数派だったから、自分たちに最適化されたさまざまなインフラを快適に利用できたのです。たまたま多数派だっただけで、何もあなたが努力してきたわけではありません。そのことは、先ほどのたとえでもわかりますよね。あなたは、たまたま足が自由に動く多数派だから、電車に乗るのに不自由しないだけです。しかし、ただ単に多数派であるだけのことが、なぜ、電車に乗るために努力したことになるのでしょうか?
これと同じことが、ひきこもりにも言えます。もちろん、心身機能・身体構造の影響はあります。それと同じくらいに、環境因子などの影響もあり、それが、ひきこもりという「参加」の障害につながっているのです。
あなたも、社会に支えられて生きているのです。たまたま多数派に属しているから、そのことが見えにくいだけなのです。
そもそも、「社会に負担をかける」ことは悪いことなのか
最後に、「社会に負担をかけること」が、本当に悪いことなのか、記しておきます。わたしたちが定めた、日本国憲法は、その前文で次のように書いています。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
憲法ですから、難しい言葉を使っていてわかりにくいのですが、かいつまんで言えば、国民ひとりひとりが福利を得るために、国政を信託しているのです。あなたはおそらく宮代町民なのでしょうが、宮代町のためにあなたがいるのではなく、あなたのような町民一人一人の福利のために宮代町があるのです。「社会に負担をかけること」は、むしろ、当然のことなのです。わたしたち一人一人の力ではいかんともしがたいことを、みんなで集まって、集団の力で解決していく。それが社会なのです。
あなたは、社会に負担をかけることが悪いことかのように言います。しかし、あなた自身もまさに社会があったからこそここまで生きながらえてきたのです。負担をかけられるために、社会はあります。
繰り返しますが、あなた自身も社会から便益を受けて生きてきた。たまたま、あなたは多数派だったから、社会の便益を十分に受けることができた。それだけのことなのです。逆に、ひきこもり当事者は、何らかの場面で少数派に属していたために、社会からの便益を十分に受けることができず、結果、参加に支障が出ている。それだけのことです。あたまたま多数派だっただけで、少数派に対する弾圧をする権利は、誰にもありません。
以上、ご説明してまいりましたが、あなたは理解することができないかもしれません。理解できないのなら、きちんと学習してください。無知なまま、他人に横暴なことを言うのは、無責任そのものです。そのような態度を厳しく糾すべく、わたしはここに公開で反論文を掲載します。
「社会に負担をかけるな」という思想の行きつく先
https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/gallery/the-murder-of-people-with-disabilities
https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/the-murder-of-the-handicapped
「社会に支えられている」具体例
https://note.com/syou_hirahira/n/n858aba631730