ふらふら、ふらふら

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「ひきこもり」という概念が、狭い文化圏の外の当事者たちを排除するとき

 ひょんなことからこっちにきた。別の場所であれこれ書いてたんだけど、その別の場所がどうも信用ならない様子なので。

 それはさておき、本題。一昨日だったか、はてな匿名ダイアリーでこんな記事を読んだ。

 

 おっ、こっちでも引用リンク使えた。こりゃ便利だってまた話をそらしたが、この記事を書いた人が生まれ育った地域では、「ひきこもり」の当事者は存在するのだろうか?ふと疑問に思った。わたしも何か所かのひきこもり当事者会に顔を出していた(COVID-19のパンデミック前は)。そこで何人かから話を聞いたこともあるんだけど、都市部(郊外も含む)に生まれ育った人たちばかりだった。この記事を書いた人が住んでいたような過疎地の人の話は聞いたことがない。

 だからと言って、都市部では「ひきこもり」とカテゴライズされるような生活のしづらさを抱えた人たちがいないわけではなく、そういう人たちは、過疎地にも間違いなくいる。ただ、どういうように体験されるか、その体験がどのように解釈されるか、それが違うだけで。

 

 ちょっと話は回り道する。

 何らかの現象に名前を付ける。そのことによって、その何らかの現象が見えやすくなる。名前を付けることにはそういう利点があるんだけど、名前を付けるとき(概念化する、と言い換えてもいい)、名前をつけるひとのものの見方(色眼鏡とあえて言ってもよい)が大きく影響する。ある現象に名前をつける人が、その現象をどういうように見ていて、どういうように解釈しているか。それが大きく影響する。わたしが知る限り、「ひきこもり」という言葉を爆発的に広めたのは精神科医斎藤環さん。斎藤環さんは、1998年に「社会的ひきこもり」(PHP新書)で、「ひきこもり」当事者がどういう人たちかを述べている。中流家庭の子どもで、男性が多くて…これらのイメージは、「ひきこもり」という言葉と一緒に広がった。ただ、この時の斎藤環さんの記述は、斎藤環さんの外来に受診してきた当事者がそういう人たちだったということに過ぎない。斎藤環さんはその当時も今も、関東の医療機関での診療経験しかないはずだ。そうすると、関東という、日本の中でも都市化が比較的進んだ地域での診療経験をもとに語っていたことになる。

 その後、精神科医のほかに「ひきこもり」を研究する学者が出てきた。例えば社会学者など。そのうちの一人、石川良子さんは、神奈川県の作っている「ひき☆スタ」というサイトに次のような記事を寄せた。

 

  「いろいろなお悩み」は、これまで「ひきこもり」とは別の問題として見られてきた。石川良子さんは、そのことに異を唱えている。実際、「いろいろなお悩み」は、「ひきこもり」と重なる場合も相当に多い。たとえば、飯島裕子さんの「ルポ 貧困女子」(岩波新書)には、さまざまな困難を抱える女性たちの姿が描かれているが、そのような女性たちの中でも、「ひきこもり当事者」とも呼べる人たちがたくさんいた。

 このことは、斎藤環さんが最初に書いて、その後広く共有されることになった「ひきこもり当事者像」は、斎藤環さんの視野と解釈によって作られたものに過ぎないことを示している。平たく言えば、日本の関東の都市部の文化に基づいてひきこもりという概念を作り出したのではないか。

 そして、そうだとすると、これまでは別のものとして呼ばれていた何かも、実は「ひきこもり」とも呼べるものなのではないかという疑問が出てくる。

 もう20年以上も前。1998年10月3日の朝日新聞夕刊に、当時ベネトンの広告ディレクター・写真家のオリビエーロ・トスカーニさんのインタビュー記事が掲載されていた。その中に、「いまだに世界の覇者だと信じている欧米でも、若者は階級差別や失業に悩まされている。そうした問題にさらされずに生活している世界で唯一の存在が日本の若者だからだ。」との記述があった。ヨーロッパでは階級差別や失業の問題として名付けられ、解釈される現象は、もしかしたら日本では「ひきこもり」として解釈される現象かもしれない。同じものを別の言葉で表しているだけだったのかもしれない。わたしは同じものを別の言葉で表しているだけだったと考えているけど。

 

 ここまで回り道してきて、当初の疑問に戻る。書店もなければ、鉄道もない、そんな地方に「ひきこもり当事者」はいるのか、って疑問だ。わたしは、いる、と考えている。ただ、そういう地域の「ひきこもり当事者」は別の呼び方と別の解釈をされているだけで。

 近年、ひきこもり当事者たちの活動は盛んになった。しかし、それらの活動のほとんどは都市部に住む当事者たちによって担われている(わたしがやってる活動も例外ではない)。都市部以外の地域にはそういう環境が整ってないって理由は一つある。だけど、最初にリンクしたはてな匿名ダイアリーの記事に描かれているように、都市部と地方では同じ国でも文化に大きな違いがある。「ひきこもり当事者」という概念は、都市部の文化から立ち上がってきたものだった。その概念が、都市部の文化に属していない当事者たちを排除しているのではないか。ふと、そんなことを考えた。

 

※わたしのこの記事は、DSM‐5の文化的定式化に関する記述の結構影響を受けてる。わたしは、属する文化が違うであろう人の行動をどう解釈したらいいものか、苦労した経験があって、その時にいろいろ調べたことがこの記事を書くときに役に立った。