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「ひきこもり当事者を里山の「歩哨」にマッチング」と「ひきこもり男性にひきこもり女性を性的パートナーにマッチング」それぞれの意見への反応の違いに潜むジェンダー不平等

 昨年秋、内田樹さんが、ひきこもり当事者に過疎地の里山での仕事を「マッチング」することによって里山の荒廃を防ごうなんて意見を述べていた*1。当然のことながら、この意見はひきこもり当事者の間ではたいそう評判が悪かった。賛同の意を表したひきこもり当事者は、寡聞にして知らない。そりゃそうだ。他人に里山での生活を「あてがわれる」なんて嫌に決まってる。

 ところが、同じ「あてがう」でも、今年冬にぼそっと池井多さんが紹介していた「ひきこもり当事者に性的パートナーをマッチング」*2は、「賛否両論」だった。「里山の仕事をマッチングする」と「ひきこもり男性の性的パートナーとしてマッチングする」はどうしてこうも反応が違ってしまったのか。

 ひとつ言えるのは、内田樹さんの意見では、男性ひきこもり当事者がある目的のために「あてがわれる客体」だった。一方、ぼそっと池井多さんが紹介していた意見では、男性ひきこもり当事者は女性ひきこもり当事者を「あてがわれる主体」だった。男性がどのような立場になるかによってこの大きな違いが出たのではないか、とわたしは考えている。

 わたしも顔を出すあるひきこもり当事者会、内田樹さんの暴論の後も里山や過疎地に関する話については何一つ触れてないのに、ぼそっと池井多さんが紹介した意見について行われた論争の後、恋愛や性に関する話題は避けるようにとの注意書きが追加された。その当事者会の運営メンバーを批判するのは本意ではない(なので匿名にした)。ここで問題にしたいのは、その当事者会を取り巻く状況である。里山や過疎地の話をしても、「マッチング」などと言いだして尊厳を害する発言にはならない一方、恋愛や性の話題は「マッチング」などと言いだして尊厳を害する発言になるとその当事者会の運営メンバーが危惧する状況があった。

 わたしは以前もこの論争についてたびたび記事を書いてきて、その記事の中の一つには「善悪を判断することを徹底的に拒否して無限の相対化ゲームを楽しむ」などと推測した記事があったが、ことはおそらくもっと単純だった。自分が「あてがう」ものとして差し出されるのかそうでないのかの違いでしかなかった。身もふたもなく言えば、男性を「差し出す」話には抵抗し、男性を「差し出す」話ではなければ抵抗しない、その程度の話であった。

 ここで問題提起したい。ひきこもり当事者活動が、あまりにも男性中心で動いている、男性の都合だけを考慮する方向で動いているとの問題だ。

 そうなったのにも理由があって、その一端は喜久井ヤシンさんの論考*3にも記されている。「ひきこもり」が、本来なら「一人前」に働いてセックスパートナーたる妻を養う「標準コース」から「逸脱」していることを問題化していたことから始まっているのではないか。わたしはそう考えている。

 そうすると、ことはぼそっと池井多さん一人吊るし上げれば済む話ではない。ひきこもり当事者活動に関わる人たち全員が関係する問題である。わたしも胸に手を当てて考えなければならない。