ふらふら、ふらふら

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IORIの終わり~「幻」を信じられた「幸福」な時代が終わった

 過去何度か書いてきた、「IORI」と言うイベントが、この8月の開催で定期開催を終了した。とにもかくにも10年続けてこられたのは本当に幸いなことであったと思う(皮肉ではないですよ)。どんな意見もフラットに話すことができる、どんな人も受け入れる場を作れると信じられた場であった。そう信じていられたのは、幻だったのだけど。なぜそんな幻を信じていられたかは後で書くとして、その幻が危うくなった場面を二つ取り上げる。

 ひとつめ。2019年2月の開催時のこと。参加者による暴力行為があった。それから、運営メンバーで喧々諤々議論されたらしい。どんな人も受け入れるとの理想と、暴力行為に及ぶ人を放置しておくわけには行かないとの現実の間で。その後、無許可で会場に乱入した人間が暴力行為に及び、警察に現行犯逮捕される事件が起きた。このことへの対応として(感染防止対策もあったが)当面オンライン開催のみとのアナウンスがされた。この時が、どんな人も受け入れられる場を作れるとの幻が消え始めたときであった。

 ふたつめ。これはわたしも関わったから言いづらいところでもあるのだが、今年2月の開催時。ある参加者が、地域で男性ひきこもり当事者に性的パートナーを「あてがう」支援をしてほしいとの意見を発した。このことについて、大論争になったのはこのブログの読者ならご存知だろう。わたしも論争に参加した。この論争の一方の当事者は「言論の自由」を前面に打ち出して論陣を張っていた。それに対して、わたしたちは、そのような発言は女性の尊厳を踏みにじるものであるとの論陣を張った。この論争において、明らかに対立する当事者がいた。その双方が同じ場にいることは不可能だった(少なくとも論争の一方当事者はそう考えていたようだ)。そして、この論争は、最終的に決裂して終結した。この時、誰もを受け入れられるなんて幻を信じられた「幸福」な時代は終わってしまった。その結果がIORIの定期開催終了だったのだろう。

 なぜ、そんな幻を信じていられたのか。それは、IORIが無意識のうちに前提としていた「ひきこもり当事者」がとても限られた範囲の人々だったことにあるとわたしは見ている。どのような範囲の人々か。すなわち、「南関東中流家庭に生まれ育った、シスジェンダーヘテロセクシュアル男性で、暴力行為に及ばない善良な人たち」である。このような人々だけで「対話」していれば、大きな対立もなく、それこそ「自分の考えとちがうな~と思っても、否定はしないでください。異なる意見の中に新たな発見があるかもしれません。」として済ませることができていた。ところが、現実のひきこもり当事者は、セクシュアリティもその他の背景も実に多様であった。IORIが無意識のうちに前提にしていた人々よりもはるかに広い範囲の人々であった。IORIがよって立っていた前提は、そんな多様な背景を持つ人々を無視することで成り立っていた。暴力行為に及ぶ者も想定外ならば、女性当事者も想定外だった。そのことは、ふたつめに挙げた論争で、「言論の自由」を擁護した側が「いつでも退出することができた」としきりに言っていたことにはっきりと表れている。これは、男性視点に立った会話が苦痛な者はいなくてもいい、との趣旨だ。このことに直面することになって、幻を信じられた「幸福」な時代は終わった。

 これからのひきこもり当事者は、背景も多様なさまざまな人々がいるのが当たり前である現実を生きていかなければならない。こっちのほうが当たり前のことなんだけど、どうしてもそのことに抵抗したい人たちは今もいる。女性も尊厳を持つ人間であることを受け入れられない人が。背景も多様な当事者がいることに、10年間も直面せずにこられたのは奇跡であった。

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