「僕は僕でよかったんだ」(奥地圭子・矢倉久泰著、東京シューレ編、東京シューレ出版)を以前読んだ。その時引っかかってて、今も引っかかってる部分がある。その本に、東京シューレ発足以降発刊までの教育の歴史に触れた部分がある。その中に、通信制の枠組みの中で多様な教育を展開する高校が出てきた、との記述がある。通信制高校が「多様な教育」を展開するようになったのを肯定的に記述している。ここに引っかかる。
通信制高校の基本的な枠組みは、生徒が自学自習して、その結果を報告(レポート)、自学自習で足りない部分を面接指導で補い(スクーリング)、単位認定のため試験を行うってものだ。自学自習が基本だから、施設も人員も全日制よりは手薄になってる。その自学自習が基本になってる制度の枠組みの中で、「多様な教育」とはなんじゃらほい。手厚いサポートを謳い文句にする通信制高校、毎日通学コースなるものを設ける通信制高校など、わたしは「ちょっと、それおかしいんじゃないの」と言いたくなる。
なぜ全日制や定時制ではダメなのか。「多様な教育」とやらを通信制高校が展開することが、いったい誰のためなのか。酒井朗「高校中退の減少と拡大する私立通信制高校の役割に関する研究: 日本における学校教育の市場化の一断面」(上智大学教育学論集第52号、79ページ~92ページ)*1に、次の記述がある。この視点は決して見落としてはならない。
…既存の高校とは異なる学校文化を備えた高校が設置され、そこに既存の高校に適応できずにいる生徒の多くが転学、編入学できるようになったことで、既存の高校、すなわち全日制の高校や定時制高校は、従来通りの学校文化を堅持する、あるいはさらに強化することができるようになっているのではないかということである。
全日制が「合わない」生徒に「通信制があるからそっちに行けばいいよ」と言えることによって、全日制高校のあり方が問われることはない。わたしが経験したのはずいぶん昔のことではあるが、不登校=通信制高校の図式は中学校の進路指導の現場で当たり前のように信じられていた(それから時代が下った後になっても同じような構図が信じられていることを青木光恵「中学なんていらない」KADOKAWAが記している)。
ここでわたしは改めて問いたい。なぜ通信制でなければいけないのか。誰の都合なのか。誰のための通信制高校なのか。と。
なんで今日こんなこと書いたかって?文部科学省が2020年の「地方教育費調査」の中間報告を発表したから。これによると、全日制高校生徒一人当たりの経費が1,231,128円なのに対し通信制高校生徒一人当たりの経費が355,108円(いずれも全国平均)。これは公立高校の数字ではあるが、投入している経費は通信制高校のほうが低いのに「手厚いサポート」「多様な教育」とはいったいなんなんだ?と改めて書きたくなったのだよ。もちろん、私立通信制高校は「手厚いサポート」「多様な教育」の対価として高い学費を請求しているのだけど。もともとが自学自習を基本としているはずの課程に、高い学費であれこれオプションサービスつけてって、めちゃくちゃあべこべ。