ふらふら、ふらふら

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「あの子の子ども」から考える「全定同一」

 つい最近、「あの子の子ども」(蒼井まもる作、講談社別冊フレンド」連載)って少女漫画を知った。高校生の妊娠をめぐる物語だ。コミックスをさっそく買って、既刊はすべて読んだ。妊娠した高校生・福(さち)が、今在学している高校を卒業するか、定時制通信制に転学するか葛藤する姿が描かれている。

 ここで、あえて、わたしは問いたい。理念上の話で、現実とは違うことは知っているのだけれども、それでも、あえて問いたい。「全定同一」の理念はどこに行ってしまったのだろう。全日制も定時制も同じ高等学校であるとの理念だ。その理念について、1958年に出された「高等学校学習指導要領一般編(昭和31年改訂版、昭和33年4月再訂版)」は、通信制をも含めた形で次のように記述している。

 現行の高等学校の制度は,通常の課程(いわゆる全日制の課程),定時制の課程(夜間その他特別の時間または時期において授業を行う課程)および通信教育に分れている。

 これらは,主として授業を行う時間,時期または形態の相違によって区別されるが,すべて高等学校として同一の目的,目標をもち,入学および卒業の資格においても,これらの間に差異は認められていない。したがって,教育課程に関しても,すべてこの学習指導要領の基準による。ただし,教科編に定められた事項のうちには,定時制の課程または通信教育において,そのまま適用されにくい部分があるが,これらについても,その趣旨により適切な運営をはかるものとする。 

 全日制も定時制通信制もすべて同じ「高等学校」で、授業を行う時間や形態の違いだけであると、ここでは明確に記されている。したがって、通信制で卒業できる生徒は、全日制でも卒業できる生徒であると、理念上はそのようになっている。とすると、福が通信制に転学しなければならない理由は一体どこにあるのか。福が毎日通学できない、自宅で自学自習したいと希望するのなら、通信制高校への転学は極めてまっとうな選択になるが。そうでもないのに、ただ「全日制では周りの理解が得られない」だけの理由で通信制高校へ転学を勧めるのは、わたしは違和感を覚える。もちろん、それは理想論でしかないのはわかるのだけれども。

 「あの子の子ども」第5巻の謝辞に「中央高等学院様」の名が挙げられていた。ご存知の方も多いだろうが、中央高等学院とは通信制高校の学習をサポートする塾(一般には「サポート校」と呼ばれる)で、それなりの頻度通う。通信制高校って、自学自習を希望して入ってくるものではないの?それが、ある程度の日数通うってどういうこと?この、「サポート校」の存在ほど、今の通信制高校が置かれた理念と現実のかい離を端的に表すものはない作者が意図したわけではないだろうが、福が通信制高校に水路づけられることのゆがみをも描いた(と、わたしは読んだ)。

 全日制>定時制通信制と序列化されていて、全日制で「わけあり」とレッテルを貼られた生徒は定時制に、定時制でも「わけあり」とレッテルの貼られた生徒は通信制に。現実にはそのように序列化されている。それって「全定同一」の理念に照らしてどうなのよと、わたしは異を唱える。そのような序列化によって一番迷惑をこうむるのは当の生徒だ。それに、よくよく考えると、「通信制への転学」で「一丁上がり」とするのは、単なる「排除」ではなかろうか。…これはわたしのオリジナルの指摘ではなく、朝日新聞デジタル連載「あきらめへん~西成高生の卒業」第2回「高1で妊娠「産む。学校も続けたい」訴えた私に、先生はこう言った」(https://digital.asahi.com/articles/ASQ3J4J39Q2KPTIL012.html)につけられた中塚久美子さんの指摘だ。

 と、「あの子の子ども」を読んで、今の高校が持ち合わせている「排除」の構造について改めて考えた。

参考:文部科学省「今後の高校教育の在り方に関するヒアリング(第2回)議事録」、飯山昌幸氏(東京都立新宿山吹高等学校長)意見発表

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kaikaku/arikata/detail/1301473.htm