ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「世間」が生み出した、望まぬ副産物

割と最近、この本を読みなおした。

https://www.amazon.co.jp/dp/4334974422

で、わたしがちょっと前に書いたこの記事のことも思い出した。

https://note.com/syou_hirahira/n/nc19cca5bd832

実のところ、ひょんなことからエゴサーチをしたら、たまたま5ちゃんねるのスレで紹介されてるのを見つけて、わたしが書いた記事を、「世間」って概念を交えてもう一度振り返ってみたかったってのもある。

https://mao.5ch.net/test/read.cgi/industry/1585068719/251-256

「今同じこと言えるなら頭沸いてる」とまで言われたのだけど、ヨーロッパなどでの惨状を見た今の時点でも、考え方は大きくは変わらない。会社が私生活にあれこれ口を出すべきではない。まして、GPSまで持たせて常時監視するなど言語道断。

感染拡大防止対策のために、たとえば外出をしないよう要請していいのは公衆衛生行政。ひとびとの健康を守る責任を負ってるのがまさに公衆衛生。公衆衛生の立場からひとびとに要請や指示をするのは当然のこと。会社ではなく行政がやるべきことだった。

でも、みなさん、会社が私生活に口を出すのは当たり前だと思ってるよね。いくら裁判所が「労働者は、(中略)企業の一般的な支配に服するものということはできない」(最判昭和52.12.13、民集第31巻7号1037ページ)とか、「被用者は、使用者に対して全人格をもって奉仕する義務を負うわけではなく、使用者は、被用者に対して、その個人的生活、家庭生活、プライバシーを尊重しなければならず、また、その思想、信条の自由を侵害してはならない」(大阪高判平3.9.24、労判603号45ページ)と言ってても。会社と社員の関係は、社員が労働力を販売し、会社はそれに対し報酬を支払うって、本当はものすごくドライな契約関係なんだけど、そんなことは普段は考えもしない。

ここで「世間」ってのが出てくる。「世間」には、個人なんてのはいないので、だれしも共同体の構成要素として存在している。「世間」という共同体の中では、だれしも共同体に「迷惑をかけない」とか、共同体の「和を乱さない」とか、そういうことが求められる。もちろん、会社も共同体なので、会社に「迷惑をかけない」ために、唯々諾々と私生活にまで口を出されるのを認めちゃう。契約に基づく権利義務ではなく、会社という共同体の中であてがわれた役割を果たすことが主眼になる。だから、5ちゃんねるのスレで「今同じこと言えるなら頭沸いてる」なんて書いていたのだろう。

話はちょっとずれるんだけど、日本の会社が職務を明確にして雇用契約を結ばないのも、会社が共同体として経営されているから。なので、共同体のみんなに「迷惑をかけない」ように、「和を乱さない」ように、自分の仕事以外の仕事もどんどん引き受ける。共同体の一員としてそれが当たり前と考えてるから。だから、職務を明確にすることは不可能。会社共同体にあるすべての仕事が行わなければならない可能性のある仕事になるから。

話を元に戻す。これに対して、公衆衛生行政は、わたしたち市民に、「健康で最低限度の生活を営」めるようにする義務を負っている。また、「すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」という義務も。これは憲法に定められている。ここでは、わたしたちの健康を守ることが、権利義務の関係として整理されている。そして、その義務を果たすために、わたしたち市民にみだりに外出をしないように要請するなど、そのようなことをすることが認められる。ここには、ドライな権利義務の関係だけがあるはず。

ところが、ここでもまた「世間」ってのが出てくる。共同体のみんなが外出しないのに、あいつらは外出している!けしからん!共同体の和を乱すな!って噴き上がる、いわゆる「自粛警察」。もちろん、ここでも、共同体の中であてがわれた役割を果たすことだけが主眼に置かれているので、パチンコ店には抗議に行っても朝の山手線の通勤客には抗議に行かない。通勤は共同体で認められたことだから。感染リスクなんかよりも、共同体に認められるかどうかが判断基準。「自粛警察」は、「世間」が生み出してしまった望まぬ副産物の一つ。

しかし、「世間」の同調圧力によって、とにもかくにも日本では感染を抑え込むことに成功した。日本に住むわたしたちは、「世間」なるものの毒まんじゅうをおいしく食べてしまった。なので、そんな「世間」なるものが生み出してしまった「自粛警察」の後片付けもしなければならない。それはとても大変なことだけど。

ところで、そんな「世間」の行動規範を、わたしたちはどこで学習してくるのだろう?もちろん、幼いころから家庭で学んでくることもあるんだけど、結構大きい要素は学校。学校で「世間」の行動規範を学んでくる。たとえば、「我慢」を覚えるというような形で。これについてはちょっと前に記事にした。

https://note.com/syou_hirahira/n/nc4b41dde9f2a

この記事で引用したブログ記事はこっち。

https://kieth-out.hatenablog.jp/entry/2020/09/04/195754

周りの人間に配慮するように、常に我慢をするように教えられてくる。もちろんこれ、「世間」の行動原理そのもの。共同体の一員として周りに常に配慮しつづけるように、そう教育していることを、元教員の方があけすけに書いている。「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない」ことも教えている。もちろんこれも「世間」の行動原理。何かをいただいたら何かをお返ししないとほら、気持ち悪いじゃないですか。わたしはそうなんだけど、これも学校で教えられてくることなんだな。共同体の一員として、周りから何かしてもらったら何かをお返ししなければならない。そうやって、周りに常に配慮し続けることを学ぶ。さらに、共同体の中でどういう立場にあるのかを常に意識し続けるのも「世間」の行動原理。そこから、たとえば「身の丈に合った生活をしなさい」「身分をわきまえなさい」「長幼の序を守りなさい」といった「徳目」が登場することになる。

で、このブログを書いたSuperTさんは、そういう我慢をしたら「安全に、十分に楽しめる世界が待っている」とか、「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない――そう教えられて育つ子どもたちは、結局しあわせになるに違いない。」と書いているんだけど、それはあまりにも楽観的に過ぎる。「世間」の中で、「身の丈に合った生活をしなさい」という徳目を守るとして、しかも、何が身の丈に合った生活なのかは「世間」が何となく決める。「長幼の序」や「身分」に合った形で。だから、めちゃくちゃ極端な話をすれば、「長幼の序」に従って、同じ共同住宅に住んでいるご老人が故障して出火の危険があるようなエアコンを使い続けても、「長幼の序」で若者は我慢しなさい、となる。それで火災が発生して住宅丸焼けになって若者が死んでも、それは「身の丈に合った生活」ということになる。ちなみに、本当にそんなことを言い放ったご老人がいた。これが、「世間」の行動原理。で、ご老人の言うがままに焼け死ぬまで待ち続ける若者は「しあわせ」なんだろうか?

「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない――そう教えられて育つ子どもたちは、結局しあわせになるに違いない。」ってのは、「世間」の原理とはまたちょっと違った原理をも示している。いわゆる「自己責任」ってやつだ。さっきの共同住宅の例で言えば、そんな危険なエアコンを使うご老人が住む共同住宅を引き払う金がないような「身分」の人間は、死んでも「自己責任」、となろうか。「世間」と「自己責任」が悪魔合体すると、こんなとんでもない話になるという極端な、しかし実際にあった例。

と、常に共同体への配慮を欠かさず、自分を抑えて我慢して生活しなさい、そうやって教育してきた成果が神戸の教員間いじめ事件でこれでもかというほどに出たのではないか。

https://kieth-out.hatenablog.jp/entry/2020/02/28/195544

 この記事で、SuperTさんは、加害教員は自分の人権を守るために戦おうとしたのかというようなことを書いている。共同体の一員として、常に周囲に配慮し続けるようにと教育されてきた人に、そんなことを言うのは無茶ぶりもいいところ。それこそ、「我慢するように」と教育されてきて、だからどんないじめにも「我慢」したのだろう。それを、まるでいじめにひたすら耐えてきた教員のことを悪し様に書くのは、あまりにも矛盾している。明らかに、「世間」の行動原理(SuperTさんが言うところの「我慢」)に従ってひたすら行動してきた。もしかしたら、いじめを受けない権利を得るためには、職を諦めなければならないかもしれないとも考えたかもしれない。それを教えてきた人たちに、この事件の被害者を悪く言う資格などない。

 いや、自分の権利義務をドライに割り切る「個人」を育てるというのなら別だが。もちろん、そういう個人を育てるのなら、たとえば「やたらでしゃばるのではなく、黙って自分の責任を果たしなさい」なんて教えるのは論外ということになる。だけど、それじゃあ日本の美徳がなくなるから嫌だというんでしょう?だったら、その日本の美徳に従って行動してきた被害者を悪し様に言ってはいけない。これも、「世間」が生んでしまった望まぬ副産物なのだから、わたしたち全員で後片付けもしなければならない。