ふらふら、ふらふら

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「ひきこもり」概念が持っている立場性

 「ひきこもり当事者」とはいったい誰のことを指すのか疑問になった。特に議論がされることなく「ひきこもり当事者」なる言葉が使われているが、そもそも「ひきこもり当事者」とはいったい誰のことなのか。

 わたしが見た範囲では、南関東中流家庭に生まれ育った男性が「ひきこもり当事者」のプロトタイプとして記述されているように見える。そのプロトタイプに当てはまるひとの立場から発信された言葉が「ひきこもり当事者の言葉」として受容されている。

 このプロトタイプ、何の留保もなく「世界のひきこもり」を記述する際にも定義として使われているように見える(ぼそっと池井多「世界のひきこもり : 地下茎コスモポリタニズムの出現」、寿郎社、2020年は典型例)。

 「ひきこもり当事者」をほとんど何の議論もすることなく記述する行為に、「立場性」は隠れていないだろうか。たとえば、「年齢相応の社会参加がなされていない状況」にあるひとのなかには、「パリ郊外で移民の子として生まれ育ち、今もパリ郊外で仕事も得られず捨て置かれている。往々にして警察には強権的に対応される。そんな自分たちのことを内務大臣は「くず」と吐き捨てた。」という生活歴を持っているひとも含まれるはずだが、おそらく「ひきこもり」を記述するときに、このようなひとは無視される。

 こうして見てきたように、ひきこもり当事者なる概念は、中流階級の文化に根差した概念で、「ひきこもり」と自己規定することそれ自体が、中流階級にある家庭で生まれ育った男性という立場にいるからこそできる行為と言える。「ひきこもり」を何の留保もなく記述する行為が、知らず知らずのうちに、中流階級にある男性以外のひとを不可視化している可能性には敏感でありたい。その立場性に無自覚でいる結果が、近年発覚したいくつかのハラスメントである。

 なるほど、「ひきこもり当事者」の家族が、家族会で活動することが「ひきこもり当事者」にとって抑圧的に働く可能性はある。とはいえ、「ひきこもり当事者の家族」もまた、「ひきこもり当事者」と同じ文化の下で暮らし、同じ立場性を持っている。日本の南関東中流家庭の文化を相対化しなければ、抑圧から逃れることはできないだろう。