ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

被害者が「誰なのか」さえ選別される社会

 木村花さんの件はほんとうに危うくて、自死しないと誹謗中傷の処罰がなされないとの前例を作ってしまった。世界保健機関は、メディア関係者向けの手引で、自死以外の解決策を示さなければならないと述べているが、この日本社会が、誹謗中傷に対し、自死以上に効果的な被害回復の方策を用意しているようには見えない。ひとが死んで、初めて誹謗中傷は問題とされる。
 ルソーが言うところの、「最も強い者の権利」のみが幅を利かせてる。法によって公正かつ透明に紛争が解決されるのではなく、「身分」によって紛争が解決される。「身分」が高い者は誹謗中傷やりたい放題。それが嫌なら自死したら逆転できるぞと、「すでに」言ってしまった。

司法制度改革審議会意見書*1はこう述べた。

法の下ではいかなる者も平等・対等であるという法の支配の理念は、すべての国民を平等・対等の地位に置き、公平な第三者が適正な手続を経て公正かつ透明な法的ルール・原理に基づいて判断を示すという司法の在り方において最も顕著に現れていると言える。それは、ただ一人の声であっても、真摯に語られる正義の言葉には、真剣に耳が傾けられなければならず、そのことは、我々国民一人ひとりにとって、かけがえのない人生を懸命に生きる一個の人間としての尊厳と誇りに関わる問題であるという、憲法の最も基礎的原理である個人の尊重原理に直接つらなるものである。 

 現実には、「法の支配」はまったく徹底されておらず、「身分が低い」とみなされたものはまるでサンドバッグのように扱われる。
 ひきこもり当事者の中では発信力のあるひとが、「◯◯は人を殺しかねない」なるコメントを放置するどころか積極的に賛意を示していた。そのことに、誰も表立って異議を唱えることはなかった。おそらく、◯◯に、「人望」やら「全体の利益」をたくさんもたらすひとの名前が入っていたとしたら、ひきこもり当事者たちの反応はもっと違っていた。しかし、それって、「社会の役に立たない障害者は死ぬべきである」とした、植松聖さんの思想といかほどの違いがあるのか。

 別の例を挙げよう。京都アニメーション放火事件の被害者らには33億円の募金が集まった。相模原障害者施設殺傷事件の被害者には?法で定められた給付金だけだろう。

 さらに極端な話を出そう。被害者が腕利きの医師である場合と、職についていないひきこもり当事者の場合では、賠償金の額は大きく異なる。被害者にするなら職についていないひきこもり当事者を選んだほうが良いと言わんばかりだ。ほんとうにそれでいいのか。

 きょう参加してきた、相模原障害者施設殺傷事件に関する哲学対話を想起する。植松聖さんに石を投げられるひとはいない。植松聖さんが食べたのと同じ毒まんじゅうを、皆食べている。
(なお、「選別」に抵抗する立場から、意図的に植松聖さんに敬称をつけました。)