ふらふら、ふらふら

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それとなく行われている「選別」

 小金井市貫井北センターにて行われた「『選別』される社会 ~相模原事件をとおして<問い・語る>哲学対話~」に参加してきた。わたしにとっては、会場に行く前にすでに「選別」を感じさせた。埼玉東部の片田舎から電車を乗り継ぎ武蔵小金井まで。ざっと2時間くらいはかかった。こういうイベントが行われるのはたいてい東京の多摩地区、あるいは23区で、埼玉の片田舎に住んでいるわたしは電車賃を払い、時間をかけて参加することになる。東京に住むだけの費用を払えないので、電車賃や時間などの有形無形のコストをかけなければならない。東京に住めるかどうかで「選別」が行われている。

 そんな大げさなって?わたしには大げさには見えない。相模原障害者施設殺傷事件の直後、津久井やまゆり園に献花に行った。相模原市とはいえ、もともとは相模湖町という山あいの小さな町が平成の大合併相模原市に合併して相模原市緑区になった地域だ。横浜市川崎市の市街地からはずいぶん離れている。中央線の相模湖駅から一時間に一本か二本のバスに乗らないといけない場所にある。横浜から鉄道で行くなら、一旦東京都内に出ないと行けない地域。横浜の市街地ではなく、山あいの集落に障害者施設がつくられた。障害者は市街地に住むな、との「選別」を見て取った。「わたしは、ダニエル・ブレイク」の登場人物、ケイティの言葉をもじれば「障害者は横浜には邪魔だってことよ」。

 住む場所さえ、それとなく「選別」が行われている。そうとは気づかないうちに。社会的に有利な地位にあるひとは、良い環境の住宅に、社会的に不利な状況にあるひとは、あまり環境のよくない住宅に住む。その差が極めて残酷な形ではっきりと表れるのは首都直下地震のときだろう。社会的に不利な状況にあるひとが多く住む、老朽化した木造賃貸住宅が、首都直下地震で大打撃を受ける。そのような住宅に住むひとの多くが、家屋の倒壊などによって亡くなることになる。運が良ければ救出されるかもしれないが。内閣府が出した最悪の想定*1では、東京都全体で33万棟の住宅が全壊・全焼し、13,000人の方が亡くなると想定されている。東京消防庁の消防力で対応できる範囲を大きく上回る甚大な数だ。とてもじゃないが、消防はすべての要救助者のもとに駆け付けることはできない。このうちの大いなる部分が、社会的に不利な状況にあるひとの被害になるだろう。現実に、阪神・淡路大震災の時には、生活保護を利用するひとの死亡率は、市全体の死亡率よりも高かった。「阪神・淡路大震災では、一般的市民層よりも生活保護世帯の方が大きな被害を受けたことが指摘されている(「市内生活保護世帯15,024世帯のうち、全壊・全焼3,619世帯、半壊・半焼2,652世帯、死者278人と平均を上回っている。」(高寄昇三「阪神大震災と生活復興」)」とは、「内閣府 阪神・淡路大震災 総括・検証 調査シート」*2にある記述である。社会経済的地位による選別が、住む場所の選別を通じて、命の選別になっている。

 そして、これは、ひきこもり当事者とて例外ではない。わたしが知る限り、東京に住みひきこもり当事者活動を行っていて発信力のあるひとのうち何人かが、老朽化した木造賃貸住宅に住んでいる。そりゃそうだろう。所得の限られた中で東京に住むとなればそういう住宅になる。それが当たり前だと皆思っている。しかし、それは命の選別でもある。

 今書いてきたような「命の選別」は、避けられないわけではない。十分な予算を用意し、良質な公的賃貸住宅を社会的に不利な人々に低家賃で供給することができれば、震災による圧死などは防げる。現に、阪神・淡路大震災で、当時の公団住宅には、人命にかかわるような被害はなかった。その後の東日本大震災でも、揺れによる大きな被害を受けた事例はなかった。やろうと思えば、圧死者ゼロは目指せる。内閣府も、建物の耐震化率を高めることによって格段に被害を抑制できるとの想定を出している。あとはやるかやらないかだ。

 だが、わたしはやらないと見ている。首都直下地震が現実に起きた時に、まるで避けられなかった死だったかのように死者が弔われるだけだろう。社会的に不利な状況に置かれているひとが死のうと物の数ではないと皆それとなく考えている。意識してないだけで。低所得者が多く住む老朽化した木造賃貸住宅の耐震化に費やすお金がもったいないと思っている。残酷だけど、それが現実だ。「全体の利益」を考えれば、社会的に不利な状況にあるひとを見殺しにするのが「合理的」だ。「そんなに日本は裕福な国ではない、そんなお金ないだろって」。ひきこもり当事者なんかも、それとなく見殺しにされる対象に入っているのは間違いない。そのことを裏付けるのが、石原慎太郎都政の下で制定された東京都震災対策条例の前文だ。「地震による災害から一人でも多くの生命及び貴重な財産を守るためには、まず第一に「自らの生命は自らが守る」という自己責任原則による自助の考え方、第二に他人を助けることのできる都民の地域における助け合いによって「自分たちのまちは自分たちで守る」という共助の考え方」を宣言した。自らの命を自ら守らなかった「自己責任」として、社会的に不利なひとの死は「仕方なかった」とされるのだろう。かつて美濃部亮吉都政の下で制定された東京都震災予防条例が、地震による災害の大部分は人災であり、人間の英知によって予防できると宣言したのと対照的だ。

 かくして、「選別」は行われ、正当化される。選別され、切り捨てられる側のひきこもり当事者、それも当事者活動をやってるひとたちが、「全体の利益」を振りかざし、まるで選別する側に立っているかのように振る舞っているのは実に滑稽としか言いようがないが。

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