ふらふら、ふらふら

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「弱者権力の乱用」なる恣意的なレッテル

 わたしが東武鉄道の本社に「障害者だから無料で乗せろ」と言ったら、おそらく「弱者権力の乱用」などと非難されるだろう。ところが、横浜市で、横浜市在住の高齢者が市営地下鉄の無料乗車を求めて市役所にクレームを入れたら、そのような主張には耳を傾けられた。それが「礼儀を知らない若い親や子どもを援助するのは無駄だ」なんて内容であっても。このことを弱者権力の乱用だと批判すれば、「弱者切り捨て」と非難されるだろう。

 さらに、東京都区部在住の精神障害者が麻雀やポーカーに出かける際に都営交通無料乗車証を活用して都営交通を無料で乗り回しても、「弱者権力の乱用」とは言われない。ちなみに、この方は衣食住そろっていれば素晴らしい、それ以上は贅沢だとの趣旨の主張をしている。そんなひとが東京都の公費を使って麻雀やポーカーに出かけていく言行不一致ぶりは、「弱者」叩きが恣意的なものであることあをはっきりと示している。加えて、都営交通無料乗車証は、地価の高い東京都区部に住んでいるひとびとほどよりメリットが大きい不公平な制度だ。多摩地区に居住する都民は都営交通がある都区部までの交通費がかかるし、近隣の県に居住するひとはそもそも制度そのものがない。そんな不公平な制度を利用する人々が「弱者権力の乱用」と批判されることは一切ない。

 このように「弱者権力」なる言葉は恣意的に使われている。特定の状況や人々に対してだけ弱者権力の乱用が指摘される。弱者権力の乱用と言われないひとびとはマジョリティ性を持つ。これは平等とはなんなのかを問う深刻な問題である。

 さとう学さんはかつてこのようなことを書いていた*1

弱者権力を適度に発動するぶんにはまだいいのだけれど、乱用するようになると、人々から徐々に敬して遠ざけられるようになる。関われば、面倒くさいことになるからだ。

 一部の人には受け入れられたが、「弱者権力の乱用」なんてものは、恣意的に認定しているのが本当のところだ。「気に入らないあいつ」を殴るために使うのが「弱者権力の乱用」なる言葉。そんな言葉、使うものではない。

 

【余談】

 東京都区部に住む障害者が麻雀やポーカーを楽しむために「都営無双」などと称して運賃を払わずに都営交通を利用する一方で、電車の利用がままならない障害者がいる現実がある。かつて、車椅子を使う人が列車に乗ろうとするだけで誹謗中傷され、あるいは「タクシー使え」と言われることさえもあった。

 このような背景の中で、「電車なんか乗らずタクシー使え」と言われる障害者さえいることを考えると、公営交通の無料乗車証の存在意義を問わなければならない。障害者の運賃割引の始まりは戦前に「お国のために戦った」戦傷病者への恩典からだったと推測され、戦後は「傷痍軍人」の多い身体障害者から対象が広げられた。わたしの祖父は戦傷病者だった。なので、乗車券引換証を使って頻繁に旅行に行った。しかし、空襲被災者などの「一般戦災被災者」には乗車券引換証なんてなかったことを考えると、不公平感を否めない。もともと、障害者への運賃減免は、不公平をはらんだ制度だ。

 現時点での障害者への無料乗車証の存在意義は判然としない。移動支援が目的なのか、所得保障が目的なのか、あるいは別の目的があるのか。都心から離れた(すなわちより交通費がかかる)埼玉県や千葉県の住民には無料乗車証の制度がないことを考えると、無料乗車証の意義はよりわからなくなる。

 しかし、介助者の付き添いが必要なひとびとが電車に乗る際に、介助者の運賃を無料にすることや、フェリーの個室を大部屋の料金で利用できるようにすることなど、一部の運賃減免措置は理にかなっている。都営交通乗車証には、このような明確な意義が見いだせない。

 したがって、「本当に合理的配慮なのか」という観点から、運賃の減免を見直すべき時期だ。障害のある人々が障害のない人々と同じように公共交通機関を等しく利用できるようにすることが本来の「合理的配慮」で、等しく利用できるのだから運賃も等しくすべきだという議論は非常に明確な論だ。

 

【続き】

しょうけい館で「傷痍軍人」向けの乗車証を見て以来のもやもや - ふらふら、ふらふら

【追記】

 ChatGPTの支援を受けて、大幅に文章を書き直した。もともとの文章の中から要点を抽出して箇条書きにし、その箇条書きをChatGPTにて文章化させ、さらに推敲した。確かに頭の中が整理されてよい。