ふらふら、ふらふら

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その面会交流の強制、もしかしたら「子殺し」かもしれない

 離婚して別居した親とこどもの面会交流について、こんな記事を見つけた。

doihouritu.blog.ss-blog.jp 大人が責任をもって面会交流をこどもに押し付けるべきである、とするのがこの記事の論旨である。こどもは「会いたい」と言えないのだからとの理由もつけて。「会いたいと言えない」ことには意を用いているが、「会いたくないと言えないこと」があることは無視している。「大人が責任をもって面会交流の有無を決め」、それをこどもに押し付けることが、こどもの人格、ひいては存在そのものを否定する「子殺し」―芹沢俊介さんの言葉を借りればーになり得る可能性をどれだけ自覚しているか。

 まして、虐待加害者である親との面会交流さえ肯定的である。なんでも、謝罪すれば、こどもにあれこれ条件を提示して面会交流を強制したほうがいいらしい。こどもを虐待した時点ですでに「子殺し」をしてしまっている。この世に産まれつくことについて、こどもは絶対的にイノセントだ。こどもは親の都合で産まれてくるよう強制されて産まれてくる。産むだけでも親の都合をこどもに押し付けているのに、さらに虐待にまで及ぶ。それでも飽き足らず、面会交流さえ強制する。この時、親はこどもに、三重の暴力に及んでいる。まさに「子殺し」と言うにふさわしい。そんな親が、弁護士を依頼してまでこどもに無理やり会おうとすること自体が論外だ。「子殺し」をしてしまった罪責に向き合い、生涯をかけて贖罪を行うことが、虐待に及んでしまい、こどもに会えなくなった親のなすべきことである。

 親の都合で産まれてきた、産まれることについて絶対的にイノセントな存在であるこどもに「子殺し」をしたことの責任は極めて重い。こどもによる「親殺し」を必然と受け止め、「親殺し」を黙って受けることでのみ償えるほどの重い責任だ。それだけの重い責任を負う覚悟はあるか。

 もちろん、面会交流を強制すべきだと考え、法的手続きを代理した弁護士も、それだけの責任を負っている。自分が携わった面会交流の強制が「子殺し」に過ぎなかった時に、「どうぞ、私を殺してください」と自らを差し出す覚悟はあるのか。それくらいの覚悟がないのなら、面会交流の強制になど手を出すなと言いたい。

参考文献

「親殺し」芹沢俊介著、NTT出版、2008年

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