ふらふら、ふらふら

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フリースクールも「選別性」という点では、東近江市長の小椋正清さんの発言を批判できる立場にないぞ

 わたしは、東近江市長の小椋正清さんの発言を大上段に批判できる状況ではないのではないかと疲弊感を持ちながら考える。

 「無理やり押し込む」ことが親の責任なら、「フリースクールに通わせる」のも親の責任。どちらも、教育の場が選別的であることを自明として、排除されないだけの「価値」をこどもに持たせる親の責務を強調しているように見える。これまでのフリースクール運動は、教育の市場化・自己責任化を加速させてきた。

 「多様な学び」をめぐるあれこれの話を聞いてて思い出したエピソードがある。宮下公園が「再開発」されミヤシタパークに変わったとき、炊き出しの食事を持って園内に入ろうとしていたひとが排除されてた。その排除を正当とする意見の中に、小綺麗な服着てペットボトルの飲料ときちんと包装された食品持って入れば止められないよみたいなものがあった。宮下公園を使用する権利も私的に購入するものになってしまった。宮下公園を利用する権利を「購入」できない者は容赦なく追い払われる。今や(と言っても少なくとも20世紀終盤くらいから)、「学び」や「居場所」は、親が(とあえて書く)私的に市場から購入するものになっていて、購入できないこどもは容赦なく排除される。その排除を、「みんな違ってみんないい」的な言説で正当化するグロテスクさ。ネグレクトも、「多様な学び」を「選択した」という論理に見事に回収される。

 学校の現状は、親が責任をもって「選別」を通過するように教育して「押し込む」場所になっている。では、フリースクールはどうか。こちらも、会費を払えない家庭のこどもは最初から門前払い。見事に市場化している。学校にしても、フリースクールにしても、「選別」を通過できない者はサクッと排除される。

 その意味では、フリースクール運動の現在地点も、東近江市長の小椋正清さんが「学校」について述べたこととさして変わらない。

 小椋正清さんの言う「義務教育」も、不登校活動に携わるひとたちの「フリースクール」も、どっちもミヤシタパークでした、あがたの森公園じゃありませんでしたって落ち。救いがない。学校もフリースクールも「地域的ないしは階級的にせまく限定された場」になっていることを当たり前と考えている点では、フリースクール関係者も小椋正清さんも同じ穴のムジナである。

教育は、個別的な家庭、あるいは地域的ないしは階級的にせまく限定された場ではなく、できるだけひろく、多様な社会的、経済的、文化的背景をもった数多くの子どもたちが一緒に学び、遊ぶことができるような場でおこなわれることが望ましいわけである」
宇沢弘文「社会的共通資本」岩波書店岩波新書〉、2000年。

 本来は、宇沢弘文さんがこのように述べた通り、教育も社会的共通資本であり、誰にでも広く開かれたものであったはずなのだが。フリースクールも学校もおよそ教育と名がつくものは「選別」を通過した者の特権とされている現状は、確かに小椋正清さんの言うように「国家の根幹を崩してしまう」のではなかろうか。社会に大きな分断を作り出すことによって。そんで、そのうち、捨て置かれた若者を「くず」と呼んで武力で制圧した政治家が大喝采されて首相になったりして。考えたくもないことだけど、フランスでは現実に起きた。

 そんなことを、かつて階級によってまさに教育の場から排除され、階級的に狭く限定された場を「あてがわれた」元こどもは考えるのである。