ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

蓮舫議員の発言にはモヤモヤするけれど

 いや、もう一度、もう一度よく説明を、文科省からレクを受けた方がいいと思います。貸与型奨学金は、これまたローンですよ。貸与型でしょう、無利子、有利子でありますけれども。それと、給付型、これも要件狭いです。それと、高等教育修学支援の新制度、これも要件はやはり相当絞られる。
 大学生は事業をしていないと言ったけれども、バイトだけで生活をしている学生がバイトを切られて、そして家賃が払えなくて、奨学金負担があって、そして帰省するなと言われて、家もなくなるかもしれない不安で、このままだと大学をやめなきゃいけないというのが十三人に一人で、どうしてそこを、フリーランス等の枠に学生を入れてあげればいいじゃないですか。そのスキームの中に入れて、この子は生活も成り立たない、学校をやめたら高卒になる、就職どうなるか、奨学金返せない、その不安の声にどうして応えられないんですか。
蓮舫議員のTwitterに添付されていた画像より。参議院予算委員会での発言。

 蓮舫議員の発言、わたしは失言だと思うんだけど、しかし蓮舫議員の発言を失言と片付けられるほどレベルの高い議論をこれまでしてきたのかはものすごく疑問なのよ。

 ごく、個人的な話から出発する。わたしは中学校の時に不登校になった。紆余曲折あったのだが、最初は「選んでいる」はずの不登校が、最後には「学校から追い出された」形の不登校になっていた。それでも、時は流れた。卒業証書を取りに行った時に、どこかのサポート校のパンフレットを渡されたのが唯一の「進路指導」だった。そのサポート校、年間の学費が100万円以上もして、当時の家の経済状態ではとても通えなかった。わたしが行ける学校と言えば、そのバカ高いサポート校しかなくて(本当は違ったけど)、そのサポート校に行けなければどこにも進学先がない、それが現実だった。そして、進学先なんてないまま卒業してしまった。

 もっとも、当時の経済状況からすれば、公立の高校だって行けたかどうか怪しいものだった。わたしが高校に行かないことを告げたあと、親の表情が安心した表情になったのは忘れられない。

 それから幾年か経ち、とある親戚と話す機会があった。その親戚は、わたしが高校に行かなかったことを心配しているようだった。親は事もなげに言った。「本人の選択だから」。違うんだ、当時の家庭の状況とかいろいろ考えて、高校に行くのを諦めたんだよ、そう思ったけど、何も言わなかった。たとえ家計状況など考えた結果諦めたとしても、「本人の選択」なのだから自己責任。「本人の選択」は、とても便利に使われる言葉だと思い知った。

 それから、長い間、「多様な選択」なるものに強烈な嫌悪感を抱いた。その一端を知ってる人は知ってる。通信制高校に対しても、極めて否定的な感情を持っていた。多様な選択なる言葉が、抑圧として働いた場面を目の当たりにしたから。なので、通信制高校を否定する理論武装はものすごく重装備になった。その重装備の中には、「通信制高校を卒業した生徒の半分は進路未定」ってのもあった。今回の蓮舫議員の発言にかなり近い思考。なので、わたしも通信制高校を差別しているのか、と言われてもおかしくはない。

 しかし、そこまで通信制高校を否定する必要はあったのか。迷いが生じてきたのは多様な教育機会確保法をめぐるあれこれに関わり始めてから。みんなが学校に行かなければならないなんて息苦しいし、学校外の学びの場も何らかの形で公認する必要はあるとは思っていた。しかし、学校外の学びの場を公認することで、「学校に行けなくてもいいよね」と、学校が責任放棄する言い訳に使うことに対する危惧も捨てられなかった。どうにもこうにも迷った。なにしろ、わたしは、現実に、通信制高校に行けばいいのだから全日制に行けなくてもいいよねと言われた当人だった。そういう言い方は何かがおかしい。だからと言って、全員が全日制高校に行くべきとするのも何かおかしい。

 このあたりの迷いを見事なまでに整理してくれたのが、アマルティア・センの「ケイパビリティ」という概念。比較的わかりやすいのは「不平等の再検討」。

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 センの提唱する「ケイパビリティ」を、わたしごとき浅学の者が解説するのもおこがましいのであるが、「実質的に存在する暮らしぶりをよくするための自由」とでも解説したらよいだろうか。「ケイパビリティ」という概念を知ることによって、はじめて「多様な選択」を肯定することができるようになった。アマルティア・センがケイパビリティに関して述べていることの中で印象的なのは、「飢餓とハンストは違う」と述べていたこと。飢餓は食べものを得る自由を奪われた状態、ハンストは自らの意思で食べものを放棄した状態。ハンストを肯定することは、飢餓を肯定することではない。こんな当たり前のことも、アマルティア・センのケイパビリティという概念に触れるまでは気づかなかった。

 同じように、通信制高校を肯定したとしても、全日制高校から排除することをも肯定するわけではない。学校外の学びの場を肯定しても、学校から排除することを肯定するわけではない。中学校を卒業したあの日、わたしは、「高校に行く自由」を剥奪されていた。剥奪されたことそれ自体が問題なのであって、高校に行かないことが問題なのではなかった。

 アマルティア・センのケイパビリティという概念は、とても魅力的だ。一見対立するように見える(だからこそわたしは通信制高校に対する呪詛の言葉を吐き続けてきた)「多様」と「平等」が、両立するものだと教えてくれる。何を選択するかの自由を、平等に保障することが必要とのロジックで。

 ここで、冒頭の蓮舫議員の発言に戻る。「学校をやめたら高卒になる、就職どうなるか」って発言は、わたしからしたら失言に見える。高卒で生活している人はたくさんいるのだし、そのような人たちを否定すると読める。

 だけど、この国では、「高卒でも生活して行ける」ことから「大学に行く権利なんて保障する必要ない」とロジックを組み立ててきた。なので、「大学に行く権利」を保障する制度を導入するためには、いったんは高卒で働くことの不利を主張しなければいけなかった。2019年3月14日に、大学等における修学の支援に関する法律案を審議する衆議院本会議で、当時の柴山昌彦文部科学大臣の発言はそのいい例だ。

 最初に、大学等における修学の支援に関する法律案の提出に至った経緯と私の決意についてお尋ねがありました。
 高等教育については、全世帯の進学率は約八割であるのに対して、住民税非課税世帯では四割程度と推計しており、経済状況が困難な家庭の子供ほど大学等への進学率が低い状況にあります。また、最終学歴によって平均賃金が異なる状況にあります。
 今回の高等教育費の負担軽減は、こうしたことを踏まえ、低所得者世帯であっても、社会で自立し、活躍することができる人材を育成する大学等に修学することができるよう、真に支援を必要とする者に対して授業料等減免と給付型奨学金の支給をあわせて行うことで、経済的負担の軽減を図り、我が国における急速な少子化の進展に対処するものです。また、低所得者世帯の進学率の向上は、所得格差の固定化の解消にも意義があると考えております。
 大学等の教育の質の向上に向けた改革とあわせて、この新たな支援措置を二〇二〇年四月から確実に実施し、家庭の経済事情にかかわらず、みずからの意欲と努力によって明るい未来をつかむことができる社会の実現を目指してまいります。

 2019年に閣議決定された「子供の貧困対策に関する大綱」にも、次の記述がある。

 また、将来の貧困を予防する観点から、高校中退を防止するための支援や中退後の継続的なサポートを強化するとともに、教育の機会均等を保障するため、教育費負担の軽減を図る。

 大学に進学しないことによって平均賃金が変わることを踏まえて新しい大学への修学支援に関する制度を必要と説明する文部科学大臣、将来の貧困を防止するために高校中退を防止する必要があると定めた政府の方針。「高校中退」「高卒就職」に不利があることを前提にして、大学への修学支援や高校中退を防止するための支援を必要と説明している。「高校中退」「高卒就職」が不利であるから支援が必要とのロジックは、大臣が国会で答弁するくらいには当たり前のこととして受け取られてきた。このようなロジックは、冒頭に挙げた蓮舫議員の発言と、どこが違うのだろう?

 蓮舫議員の発言は、この国では広く使われているロジックをそのまま発言したものに過ぎなかった。なので、蓮舫議員の発言を批判するとしたら、この国で当たり前のこととして受け入れられてきたロジックそのものへの批判になる。

 「高卒で働いて生活をしている人もたくさんいる」その通り。「高校を中途退学しても幸せに暮らしている人もたくさんいる」それもその通り。しかし、それは、高校や大学で学ぶ権利を否定する根拠にはならない。にもかかわらず、「高卒で働いて生活している人もたくさんいる」というような言説が、大学で学ぶ権利を否定する根拠として使われてきた。それゆえに、高卒で働くことによる不利益があることを前提にしなければ、大学で学ぶ権利を保障する制度を作ることはできなかった。

 「蓮舫議員は高卒で働いている人を差別するのか」。もっともな発言だ。そのような発言がどのような文脈に置かれるかを無視したら、のことだが。そのような発言は、往々にして、大学で学ぶ権利を否定する根拠として使われる。それに対抗するためには、高卒で働くことによる不利益を主張しなければならなかった。高卒で働いても不利益ではないことを前提にして、それでも大学で学ぶ権利を保障するという議論にはついぞなってない。そんな議論をしたところで一笑に付されるだけだ。

おわりに

 わたしから見て、蓮舫議員の発言は高卒で働くことを否定的なまなざしで見る、差別的な発言とは言える。しかし、高卒で働くことを肯定的にとらえた瞬間、直ちに大学で学ぶ権利を否定する根拠として使われる。高卒で働くことも肯定的にとらえる一方で、大学で学ぶ権利も同時に保障する。そのようなレベルの高い議論など存在しなかった。そんな現実の中で、蓮舫議員の発言をあげつらって、「差別的」として批判することは、大学で学ぶ権利を否定する効果を持つ。いまさら「憲法26条の問題として質疑をすればよかった」なんてクソバイスをしてみても、その憲法26条なんて気にもせず、大学で学ぶ権利の保障なんて考えもしなかったのは誰ですか?と言いたい。