前回記事の続き。前回記事はこちら。
syou-hirahira.hatenablog.com 最後に、「女子」「中高生」が見られる客体であることを強制され続けている存在だと述べた。このことを詳しく述べようと思ったら、すでにこのブログで結構書いてた。下の記事。
syou-hirahira.hatenablog.com この記事の焼き直しになってしまうだろうが、重要なことなので、再び書いておく。「女子」であるだけで、「見られる側」に強制的に立たされる。1990年代初頭に、女性の陰毛を撮影した写真がブームになった。この時、男性写真家たちは、「表現の自由」がついに勝利したことを喜び、女性の陰毛を撮影した写真を次々と発表した。まさに、「その(表現の自由を指す―引用者注)勝利を祝うシャンパンを次々と空けるように、量産された」(長島有里枝「「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ」大福書林、2020年)。しかし、「表現の自由」をめぐる闘争は、そこで止まってしまった。男性写真家たちは、自らの男性器を描写して、「男性器の表現の自由」を勝ち取ろうとはしなかった。女性の裸体を描写する自由を得たことで満足してしまった。今から振り返れば、あの時男性写真家たちが喜んだのは、「女性の身体を消費する自由」を得たことではなかったか。しかも、「女性の身体を消費する自由」は、「性のはけ口にする自由」をも含んでいた。ともかくも、撮られる側が女性、撮る側が男性との権力関係は動かなかった。基本的には今でも変わらない。「女子」「女性」は「未熟」「従順」である方が好ましいとの通念もまた共有されている。「女子」「女性」は「見られる側」「客体」という立場に立たされ続けている。
さらに、「中高生」は、今もって、教員の支配の客体としての立場に立たされ続けている。それは「保護」の名のもとになされていることで、すべてがすべて不当ではなく、現に「中高生」が未熟な状態にあるためではある。「未熟」であること、「従順」であることを示すのが言うまでもなく制服であり、学校指定の体操服である。
「女子」「中高生」が合体するとどうなるか。「未熟」で「従順」な「女子」という、男性優位社会の中で女性に求められる要素がてんこ盛りになる。「女子」「中高生」は、嫌でも、「身体を性的に消費される存在」「見られる側に立たされる存在」となる。かくして、「女子」「中高生」にはぶしつけな視線が平気で投げかけられる。ときには、学校の行き帰りの女子生徒を無断で撮影する輩もいる。自治体からの防犯メールには、「スマートフォンを向けられた」と書いてあるが、十中八九「女子」「中高生」を撮影しようとしたものだろう。
「女子」「中高生」が、見られる側、性のはけ口にされる側であることは学校内でも変わらない。男子生徒は、女子生徒の体型をあれこれ品定めし、性のはけ口にする。そのような立場に立たされ続ける「女子」「中高生」が、自らの体型があらわになる水着に抵抗を示すのはいたしかたのないことである。下にリンクするブログ記事の筆者は、体型があらわになる水着を着ることの羞恥心は「克服すべき課題」ととらえているが、それは、「性のはけ口にされる」ことに慣らすことである。そのような行為がどれだけ女性の尊厳を損なうものであるか、当該ブログ記事の筆者はおそらく分かりっこないだろう。高齢で、男性で、元教員で、ともかくも「性のはけ口にされる立場」ではないから。
kite-cafe.hatenablog.com このような現状では、「女子」「中高生」が体型があらわになる水着を着て授業に臨むのを拒むのもいたしかたない。ある活動をしていた女性が盗撮被害に遭い、何人かがその活動を止めたなんて話もある。
www.asahi.com 性のはけ口にされるのが嫌で陸上競技を泣く泣く諦めた女性もいるのだろう。それを、「うろたえてはいけないのです」などと説教したところで何も変わらない。
それでも、なぜ、女性がここまで男性の性的な視線を受け続けなければならないのかとの怒りはある。わたしも一応男性だから被告席に座らされる問題ではあるが。