つい最近も鉄道写真を撮影しようとした者が列車を止めたと報じられた。このような、鉄道写真を撮影する鉄道ファン(「撮り鉄」と呼ばれる。この記事では以下この呼称を使う)のトラブルは、2000年代後半から目立つようになった。
駅のホームで誰彼構わず大声を上げて罵倒するわ、私有地の植物を勝手に伐採するわ、撮り鉄の狼藉は目に余る。そんな狼藉を働く撮り鉄だが、突飛な行動をしているわけでもない。写真界でまま見られる風潮に沿って行動しているだけだ。
その風潮とはなにか。撮る側が主体で、撮られる側が客体。撮る側と撮られる側の間には権力関係があって、撮る側は撮られる側に権力的に振る舞うものだとの風潮だ。おそらく、そんな風潮をそのまま鉄道写真の世界に持ち込んだのが撮り鉄だ。撮り鉄にとっては鉄道写真も獲物、被写体となる鉄道は客体である。現実には、鉄道は撮り鉄など関係なく動く。撮り鉄の思い通りになどならない。そこで撮り鉄と鉄道の間にトラブルが生じる。なんとしてでも自分たちの思い通りに鉄道を動かそうとする、鉄道相手に権力関係を作ろうとする撮り鉄の試みが、数々の狼藉になる。
2017年、JR東日本は「四季島」という新しい豪華クルーズ列車の運行を開始した。運航開始日、始発駅である上野駅には多くの撮り鉄たちが集まった。JR東日本もさるもので、「四季島」が発車するホームは「四季島」の乗客以外立ち入り禁止にしたうえ、一般客が入れるホームとの間に視線を遮る列車まで配置して、上野駅で「四季島」を撮影させなかった。過去の撮り鉄たちの狼藉を知っていれば当然だ。撮り鉄たちの狼藉がなければ、別の風景を作り出していたかもしれない。ある意味、撮り鉄はJR東日本の手足を縛る存在と言えなくもない。
JR東日本は、乗客と「四季島」車両を、撮り鉄たちの被写体にさせなかった。それだけの手はずを整える能力もあった。誰が、車両と乗客を被写体にするのを拒否したJR東日本を責めることができようか。ところが、写真家たち、あるいは見る側にいる人間たちが「見られる側」としての役割を割り当てようとする目論見から、逃げることもできず、ただ見られる客体でいることを強制され続けている存在がいる。それは、「女子」「中高生」(これら二つの単語は一つながりで読んでほしい)である。このことについては稿を改めて。
参考文献
長島有里枝「「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ」大福書林、2020年