ふらふら、ふらふら

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会社からこぼれ落ち、社会からもこぼれ落ちた人々を府中刑務所に見た

今日、府中刑務所文化祭に行ってきた。府中刑務所の現況や再犯防止施策を紹介するパネル展示もあって、強い関心を持って見た。

府中刑務所にも高齢化の波が確実に押し寄せていて、受刑者に対する高齢者の割合は上がりつつある。最近の統計だともう20%に届こうかと言うところに来ている。それを反映してのことだろうか、所内の浴場にも、介護用品のカタログに載っているような入浴補助用具が設置してあった。

高齢者の犯罪の半分以上が窃盗。それも、生活苦からの犯行が多いのだという。もちろん、犯罪はいけないことだ。さつま揚げ一枚でも犯罪は犯罪。ではあるんだけど、再犯の無限ループに入る前に、福祉は、社会は何をしていたのかと考えざるを得ない。再犯の無限ループに入る前に、福祉が入っていれば、今刑務所にいる人々の人生はずいぶん違ったものになったはずだ。

生活苦というからには、おそらく仕事に就けなくなったのだろう。仕事に就けなくなって、会社からこぼれおち、そのまま社会からもこぼれおち、「誰一人拒むことが許されない」刑務所に流れ着いた、そんな高齢者の姿が浮かんだ。

「会社」に居場所がある限り、「会社」がひとの生活をすべて面倒見てくれる。だから、安定して生活できる。ところが、「会社」からこぼれ落ちたとたん、一気に生活もままならなくなる。「会社」からはじき飛ばされたとしても、「社会」に居場所があれば、「社会」「福祉」を利用できたのではないか。

たかが仕事がなくなっただけで、すぐに社会に居場所をなくしてしまう、この社会のあり方が問われるべきだ。仕事がなくなって、お金もなくなってきた人たちを包摂する「社会」はなかった。だから刑務所にたどり着くことになる。

「福祉」は、「社会」の中の重要な機能なのに、日本では福祉を受けることにスティグマがまとわりついてくる。そこから、「福祉の世話になってるんだからこれくらいされてもしょうがないよね」なんて傲慢な考えも生まれてくる。それこそが、福祉からこぼれ落ちる人々を生んでいる。

分かりやすい例はホームレスの方々。まず間違いなく生活保護制度の対象と考えられるんだけど、なかなか生活保護制度の利用につながらない。「家がない人が生活保護を受けるなら、まずは施設に入ってもらわないと」と、「ワク」を設けているから、福祉からこぼれ落ちる人々が生まれるのではないか。

マトリックス・モデル」という薬物依存からの回復プログラムがある。精神科医の松本俊彦さんによれば、このプログラム、暖かい雰囲気の中行われ、しゃれたデザインのワークブックを手に参加するひとたちはどこか誇らしげな表情すら見せていたという。薬物乱用者をとにかく糾弾する日本ではありえないプログラム…というわけでもなく、松本俊彦さんらによって日本にも「輸入」された。神奈川県立せりがや病院で最初に始めるとき、プログラムの名称を「Serigaya Meth-Amphetamine Program」、略して「SMAP」にしようとしたという。ジャニーズ事務所とのトラブルを恐れて「Serigaya Methamphetamine Relapse Prevention Program」略して「SMARPP」になったらしいが。この、治療プログラムをしゃれたものにしようという試み、福祉の世界にも持ち込まれていい。「福祉」を利用することを「どこか誇らしげに」できるようになれば、きっと、福祉は今よりもっと多くの人に利用され、そして、刑務所に流れる人も減る。それは、私たちにとってそんなに悪い話ではないはずだ。

それと、「会社」ならざる「社会」も、今よりももっと厚くしないとダメ。たかが会社をクビになっただけで、どこにも居場所がなくなるのは窮屈だし、あまりにも会社に生殺与奪を委ねすぎている。宮台真司さんの言葉を借りれば「経済回って社会回らず」はまずい。分厚い「社会」の復活が必要で、そのためには「会社」に費やしている時間をもっと減らさなければならない。そして、会社ならざる社会に関わる時間を増やしていく。こうして、社会を厚くすることが必要だ。そのためのコアになるべきは自治体の集会施設で、集会施設などを活用して行われる活動が多ければ多いほど、「会社」にとらわれない居場所が増えることになる。そんなつながりがたくさんあれば、福祉サービスへ誰かが案内してくれることも期待できる。

と、「社会」「福祉」の薄さばかりがやたらと気になった府中刑務所文化祭でありました。