ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

障害はまだら模様。医学は正しく診断できない。

今の日本では、医師の診断書を行政が審査して、認定されると障害者手帳が交付されて、障害者としてのサービスを受けることができる。何かしら病名がついてないといけない。だけど、医学は障害を正しく診断できない。

たとえば、「統合失調症」と診断された人でも、「何に困っているか」は人それぞれ違う。別の病名でも、困っていることは同じだったりする。本人が何に困っているかには、あまり病名は関係ない。

じぶんも、精神障害の診断を持っているけど、生活のすべての場面で困っているわけではない。特定の場面で困っていることはあるけど。障害者として認定されたらすべてのサービスが受けられるけど、認定されなければ一切サービスが受けられないのは、実情に即してない。

ある病気の診断がつけば、生活のどのような場面で困っているかが特定できるわけでもない。逆に、診断が付いてないからサポートのニーズがないわけではない。とりわけ神経発達障害ではそのことが言える。

DSMなどの国際的な診断基準は、医学的介入の必要性を知るために作られたもので、教室でどのようなサポートが必要か、そもそもサポートが必要かどうかを知るためには作られてない。診断が付いていないからサポートをしないのは早合点のしすぎ。診断が付いてなくても目の前の子どもが困っていればサポートをするべき。もちろん、何に困っているかはその子どもによって違うのだから、診断名によって画一的に「配慮」を決めるのも間違い。

精神疾患に限らず、医学的診断は、治療のために存在する。その人が暮らしのどこで困っているかを知るために存在しているわけではない。「障害を医療モデルから、社会モデルとして捉えることで乗り越えることを学ぶ絵本」と宣伝されている「転校生はかがくぶっしつかびんしょう」(ジャパンマシニスト社)も、結局「医学的診断」に基づく「医学的対応」の話になっていて、ここまで医学の影響が強いのかと驚く。身体症状症かもしれないし、心的外傷後ストレス障害かもしれないし、アレルギーかもしれないし、喘息かもしれないし、医学的にどう診断が付くかはともかく、目の前の子どもが困っているのは社会的障壁のせいじゃないの?と考えるのが社会モデル。そこに「医学的診断」を持ち出すと、いろいろおかしなことになる。どういう病名だろうと。