ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

性的消費を咎める人に突き付けられる、「検閲を許すのか」という踏み絵

Q.なぜ性的消費がいけないのか?

A.意思も人格もある他人を、性の対象としてモノのように扱うからです。

 

 いきなりQ&Aで始めたけど、性的消費の何がマズいかってのはこれで十分に説明できてると思うんだけどなあ。個々の表現の細部がどうなのかというよりも、他人を対等な存在として描いているのかってのが問題なんですよ。姓の対象としてモノのように扱うってのは、他人を対等な存在として扱わないってこと。他人を一方的に見られるだけの存在として扱うこと。そういう権力関係があれば、どういうものだろうとやっぱりいけない。服を着ているかどうかは関係ない(ただ、実際の論争では、服を着ているかどうかだけが論点になっていて、その背後にある理念とかそういうものを無視して上っ面だけをなぞっているように見える。そういうのには徒労感を覚えるのだが)。たとえば、全国火災予防運動のポスターは、わたしの記憶の限りここずっと女性が被写体になっている。なんで女性ばかり被写体になってるのか。見る―見られるの権力関係が存在すると言わざるを得ない。

 

 服を着ているかどうかが問題なのではなく、そこでどういう権力関係があるのかが問題だと書いた。なので、権力関係がなければ、ヌードであろうと何も問題ない。たとえば、1990年代に長島有里枝さんをはじめとした女性写真家が試みたような、セルフポートレートなどは見る―見られるの権力関係を克服しようとする試みで(撮る側が同時に撮られる側で、撮影者―被写体という権力関係を乗り越えようとする試みであったと長島有里枝さんはのちに記している)、であるから性的消費ではない(ただし、その表現を「見る側」の問題はある。後述)。

 また、一見露出が多いように見えても、女性アスリートの競技シーンを載せた新聞のスポーツ面も、これまた性的な対象としてモノのように扱うものではない(のだけど、スポーツそのものが人間をモノのように扱ってるのではないかという考えもあって、わたしはそれにある程度賛同する)。

 

 ところが、女性アスリートの写真を性的なものとして見る人たちがいる。これがさっきちょっと触れた「見る側」の問題。写真にしても、絵画にしても、文章にしても、一度外に出てしまえば、それがどのように扱われるかはわからない。いくら長島有里枝さんが撮影者―被写体という権力関係を乗り越えようと試みた作品であっても、作品を見る側が性的に消費すればやっぱりそれは他人をモノのように扱ってることになる。女性アスリートの競技シーンも、写真として一度出てしまえば性的なコンテンツとしてとらえる人たちが出てくる。性的消費ってのは表現する側の問題だけではなく、表現を受け取る側の問題でもある。女性アスリートの性的消費については、JOCも動き始めているとのことで、この動きを歓迎したい。このあたりについては下の記事をお読みいただきたい。

 

 

 と、ここまで書いてきたのだけど、こういうことを書くことそれ自体が検閲とか表現規制に賛成しているんじゃないか、って意見はある。このあたりについて、長島有里枝さんの著書「「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ」(大福書林)に非常に参考になる記述を見つけた。というかわたしが今ここで書いていることの7割くらいは長島有里枝さんの前掲書によっている。

 かいつまんで言うと、男性写真家たちが刑法第175条(わいせつ物頒布等)による表現規制と闘うための「道具」として、女性被写体を利用した。

 刑法第175条を念のためにここに引用しておく。

 

1 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。

 

 わたしは、この法律は明らかに悪法だとは思う。さっさと廃止したほうがいいとさえ考えている。なので、この条文と闘った男性写真家たちの功績を評価しないわけではないのだが、その過程で女性のみを被写体としたことは、男性と女性の権力関係に乗っかった行為だった。だからこそ、男性を被写体にすることはついぞなかった。あくまでも被写体は女性であった。男性器の描写はいまだに厳しく取り締まられているのに、「ほとんどが男性であった「ヘアヌード」写真家のうち、自身の性器を用いてさらなる表現の自由を獲得するための”闘争”を続けるものは見当たらない。彼らは「他者」である女性の身体だけを、それ(表現の自由を獲得するための闘争―引用者注)に利用することを選んだのである」(長島有里枝、前掲書、325ページ)。だからこそ、女性たちが自分の身体をモノのように描いたりしないでほしいと当たり前の願いを述べただけで、表現規制に賛成したことになってしまう。女性たちの身体をモノのように扱うのを許すか、国家による検閲を許容するか、そんな二者択一を迫ったことになる。そんな誤った二分法で、女性たちの身体をモノのように扱うことを正当化した。そんなの、明らかにアンフェアではないか。なぜ女性たちだけが自分たちの身体を男性たちのために差し出さなければならないのか。それも自分たちの身体を品定めする男性たちに。

 

 最後に、個人的な体験を一つ。あるとき、路線バスに乗った。そのバスの路線上には高校があって、その高校で練習試合をした帰りの高校生たちがたくさん乗っていた。その高校生たちは、校名が明らかにわかるユニフォームを着ていて、地域ではかなり知られている男子校の生徒だとわかった。その男子校の生徒たちが路線バスの中で話していた内容がこれまたひどかった、自分たちの男性器の話を延々としていて、女性が聞いたら非常に不愉快になるような話だった。わたしも、不愉快に感じた。そういう「男ノリ」なるものにはどうしても違和感を覚える。女性の身体を品定めするような行為にも、そういう「男ノリ」が感じられて不愉快。そういう動機で、この記事を書いた。

 

 なお、この記事を書くにあたって大いに参考にした書籍、Amazonにリンクを張っておく(Amazonは好きではないのにAmazonにリンクを張るのはどうかと思うが)。

 

 

 余談なんだけど、そういう「男ノリ」を批判されてるのを見て、こんなツイートをする人がいるんですよねえ。

 

 俺たちが好き放題女性をモノのように扱うのに異議を唱えるとはけしからん、そんな異議を唱える連中の泣きっ面が見たいと、わたしには聞こえる。