ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

生きることは「応益負担」の対象にしてはならない

障害者自立支援法がもたらした「ただ生きることへの応益負担」

 2006年、障害者自立支援法が施行された。今も法律自体は障害者総合支援法に改正されて残っているけど。なんと、障害者自立支援法、障害者がただ生きることを「益」として、「応益負担」を求めたのだ。障害者がトイレに行くのさえ「益」だとみなして、定率の「応益負担」を求める。ただ生きることにさえ「応益負担」を求めるってことは、金の切れ目が命の切れ目ってことである。そんなひどい法律だった*1。障害者総合支援法に改正されて応能負担、つまり負担する能力に応じた負担に変わったが。ここで、わたしは、漫画家だった故・山田花子さんの父親、高市俊皓さんの文章を思い起こす。

現存する社会―資本制的社会―においては、芸術家も含めて人はただ自己の生産物を、或いは自分自身を「商品化」することによってのみ生存することを許される。

―「改訂版魂のアソコ」(山田花子著、青林工藝舎刊)収録「東中野辺りで「詩人・鈴木ハルヨ」を見かけたら知らせてほしい。」高市俊皓より

  「障害者自立支援法」は、まさにこの文章が言うように、障害者も自分自身を「商品」として売ることによってのみ生存を許されると宣言したに等しい。それは、商品価値のない障害者は死ね、という宣言でもあった。あまりにもひどいではないか。これが優生思想そのものであることは、もはや説明するまでもない。

 ただ生きることを「応益負担」の対象にしてはならない。ただ生きることを「応益負担」の対象にすることを徹底したらどんなディストピアが待っているかはこの記事が書いている。

nyaaat.hatenablog.com

ただ生きることへの応益負担はほかにもある―それが序列化・差別・支配を生み出す

 ただ生きることを「応益負担」の対象になんてしてはならないと書いたが、生きる上で重要なものが、「応益負担」の対象になっている。それは「住」だ。住宅は、自分の収入によって市場で買うものとされている。収入が少ない人が質の低い住宅にしか住めないのは当たり前と考えられている。

 政府は住生活基本計画というものを定めていて*2、その計画では「最低居住面積水準」なるものが定められている。世帯人員ごとに、「健康で文化的な最低限度の生活」を営むためには最低限この程度の住宅面積が必要でなければならないとの基準だ。この計画の中には、最低居住面積水準を下回る世帯を「早期に解消」するとの目標が掲げられているのだが、そのための具体的な施策がない―すなわち、適切な水準の住宅を自らの収入をもって市場で買うものとしている―から、最低居住面積水準以下の住宅に住む世帯の割合はここ15年以上ほぼ変わらない。*3

 それだけではない。ただ生きるだけでも必要な住宅を「市場で買うもの」、すなわち「応益負担」としていることで、無理してでも持ち家を買わなければならない状況が生まれていて、これが防災面にも影響を与えている。「手の届く」範囲で何が何でも住宅を買わなければならないから、居住性をある程度犠牲にした住宅が販売される。それでも売れるのだから。そうして買われた住宅が資産になるわけでもなく、30年ほどで建て替えられる。まさに使い捨て住宅。賃貸住宅だって、「手の届く家賃」で何が何でも借りなければならないから、家主が足下を見て居住性を犠牲にした低品質の住宅をたくさん作る。騒音が筒抜けだとか、冷暖房の効きが悪いとか。こんな状況で幸せなのはもともとの地主くらいだろう。住宅の「応益負担」にはもともと無理がある。

 ただ生きるための住宅さえ、商品として売り買いされ、自らの「商品価値」によってどんな住宅に入れるかが決まることは、住環境以外にもさまざまな差別を生み出す。もっとも特筆すべきは「道路族」*4なるものの被害を受けていると主張する人たちである。この人たち、子どもが落書きした道路の写真を見て「スラム」と吐き捨てたら実は高級住宅地である鵠沼松が岡地域の写真だったなんて噴飯ものの言動を見せた。*5しかし、ただ笑ってばかりはいられない。この人たちは、自らの「商品価値」を取引する中で生きてきたから、常に自らの「商品価値」に敏感になり、ちょっとでも気に食わない相手を見つけるや否や「商品価値」の劣るものとして罵倒しないとやってられないのだ。また、自らの「商品価値」を「値踏み」する視線に敏感だから、他人より勝っていないと不安になる。他人に勝っていないと不安になるから、何か材料を見つけたら*6すぐに他人にマウントを取る。他人を支配しないと不安でならない。それだけではない。「道路族被害者」と主張する人たちの「手の届く」範囲の住宅が防音性に劣る住宅だったから騒音に対してナーバスになっている。そんな物理的な問題もある。こう書いてみるとかわいそうな人たちであるが、マウントを取られる人、支配の対象になる人にとってはたまったものではない。

 だからこそ、「商品価値」で「値踏み」されないような社会が必要になる。そのためには、住宅を「商品」ではなく「インフラ」と捉え、「応益負担」をある程度「応能負担」に置き換えなければならない。それはすなわち公的に住宅を廉価に供給するってことであるが。ともかくも、「応益負担」を徹底することの先には解決策はない。

 「道路族被害者」を主張する人たちに、「山奥に引っ越せば」と心無いことを言う人がいる。それに対して「道路族被害者」を主張する人たちも負けじと「トラブルになる前に公園に行け、公園に行くコストなど自己負担が当たり前」と言ってたりする。どちらも、「応益負担」の論理を前提としていて、救いのない応酬になっている。何を「応益負担」とするかで対立しているだけで。「静かな環境」か、「子どもを気軽に遊ばせることのできる環境」か。わたしに言わせれば、どちらも応益負担の対象にしちゃならん。弱いものが夕暮れさらに弱いものを叩いていても何も建設的な結果は生まれない。どちらも能力に応じた負担で手に入れられるようにするべきである。具体的には?公的な住宅供給である。

*1:当時障害者自殺支援法と揶揄された

*2:最新のものは

 https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_tk2_000032.html

*3:総務省「住宅・土地統計調査」による

*4:道路をあちこちに作ろうとしていた議員たちのことではない。道路で遊ぶ子どもたちのことを一部の人たちはこう呼ぶ

*5:余談だが、わたしは一日中笑いが止まらず、ぜんそくの発作を起こしそうになった

*6:国籍だろうと、病歴だろうと、生活歴だろうと、なんでもマウントを取る材料にする