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「誰が存在するのが迷惑か?」を争う悲惨なバトル・ロワイアル

 新明解国語辞典第八版による「迷惑」の語義は、「その人のした事が元になって、相手やまわりの人がとばっちりを受けたりいやな思いをしたりすること」とある。だれかがある人の行動を「いや」と感じたら、権利侵害が起きてなくても「めいわく」となる。問題は誰が「いやな思い」をしたら「めいわく」と捉えられるかで、要は立場の強い者(「身分が高い者」や「みんな」を味方につけた側)が「いやな思い」をしたら「めいわく」と捉えられる。日本の社会は、どうやらそういうように動いているようだ。であるから、たとえば、小学校からいじめを受け続けて、ついに殺害されるに至った被害者が、小学校の卒業文集に「めいわくをかけたくない」と19回も書き残す。その被害者は、自身のいじめ被害(れっきとした権利侵害!)で「めいわくをかけたくない」から、親に泣きつくこともなく、ひとり殺害される。

 これが、たとえば、「安楽死」の場面になると、「周りにめいわくをかけたくない」から、本人の本意はともあれ安楽死に同意する「自己決定」がされたりする。刑法学者の佐藤直樹さんなら「世間」と呼び、内科医の佐々木淳さんなら「同調圧力」と呼ぶものが働いて。

 そして、今、「誰が存在するのが迷惑か?」を争うバトル・ロワイアル*1がネットの片隅でひっそりと行われている。主な会場は、このツイートのリプライと引用ツイートでだ。

  このツイートに対し、当然のことながら「人命軽視だ」との批判が向けられているのだが、そんな批判をしている人たちが、子どもの遊びを否定する、ひいては子どもの存在そのものを否定するような人たちだ。このツイートをした人も、このツイートに反論する人も、おおむね次の前提を共有していると考えられる。すなわち、「めいわく」と判定された者は生存を許されない、との前提だ。そして、いかに「めいわく」ではないかが議論の対象になる。しかし、前述の通り、「めいわく」かどうかは、「立場の強い者」が判断することなので、議論は子どもと高齢者のどちらが「めいわく」でないか、悲惨なバトル・ロワイアルになる。

 なぜ悲惨なバトル・ロワイアルと書いたか?議論の勝敗が決して、たとえば子どもが「めいわく」と判断されて、存在を否定するのが正しいとの結論に至ったとしよう。それはすなわち子どもなる存在をこの世から消滅させることである。「誰かを消滅させることが正しい」とされた世の中で、高齢者がひとり安泰としていられるはずはない。子どもを消滅させた次は高齢者の大量殺戮である。ヨーロッパでのホロコーストルワンダでのジェノサイドは、わたしたちに新たな知識をもたらした。それは、国家政策としての大量殺戮が可能であるとの知識だ。誰かの存在を否定することは、ほかの誰かの存在を否定することであり、それは国家政策としての大量殺戮を呼び込む。

 さらに、こんなツイートをする者までいる。

  「今まで納税してきた」から高齢者に手厚いことをする、それを裏返しすると、今まで納税してきてない人は見殺しにしていいことになる。こんな発言をすること自体、相模原で障害者施設を襲撃した犯人にお墨付きを与えているようなものだが、その自覚はあるか。そう、ちょうどこの記事が描くように。

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 マイケル・ベーレンバウムさんが「ホロコースト全史」(石川順子・高橋宏訳、芝健介監修、創元社刊)のあとがきで語っているように、ホロコースト後を生きるわたしたちは、「ただ負担になるだけの国民」の大量殺戮が近代国家にとっての永遠の誘惑であることを知らなければならない。そのことを知っていれば、やすやすと、子どもの存在を否定する発言や高齢者の存在を否定する発言なんてできないはずなのだが。

 もっとも、わたしも、ときどきそんなことを忘れることがある。「子どもの存在を否定するような社会で、どうして高齢者の存在だけ尊重され、保護されなければならないのか」がもともとの思考であるところ、安易に「子どもを犠牲にして高齢者を助けるくらいなら」などとする議論にくみすることがあるからだ。「誰かの存在を否定する中でなぜ高齢者の存在だけが、尊重され保護されなければならないのか」が本来すべき問いかけである。ゆめゆめ忘れないようにしなければならない。

 本記事は「Sarabande (From "Barry Lyndon")」BGMのもと書かれた。知ってる人は知ってる、NHKの特集番組「アウシュビッツ」のテーマ曲。

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*1:あえてこの言葉を選んでいる