ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

考え方が硬直化している自称道路族被害者なる人たち…しかし、硬直化は他人事ではないぞ。

 ここのところ、わたしがやたらと相手していた人たちがいる。自称「道路族被害者」。「道路族」とは、道路で遊ぶ子どもやその保護者のことを指すらしい。この人たち、子どもが道路で遊ぶことがとにかく気に食わないらしい。道路は遊ぶところじゃない、公園は遊ぶところだ、ととにかく硬直化した考えを持っている。自称「道路族被害者」の人たちは、「道路族」による迷惑の一例として、例えば騒音を挙げる。子どもが遊ぶのは騒音だから公園に行ってくれ、と。では、下のような構造の公園に行ったとして(23区内にはよくある)、騒音がどう変わるのか。

 この一例で、「道路/公園」の境界を絶対視する「道路族被害者」の思考が硬直化しているのはよくわかる。

 そう、1947年に当時の文部省が作成した学習指導要領一般編(試案)にある次の記述のような*1

 これまでの教育では,その内容を中央できめると,それをどんなところでも,どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしてもいわゆる画一的になって,教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。このようなことは,教育の実際にいろいろな不合理をもたらし,教育の生気をそぐようなことになった。たとえば,四月のはじめには,どこでも桜の花のことをおしえるようにきめられたために,あるところでは花はとっくに散ってしまったのに,それをおしえなくてはならないし,あるところではまだつぼみのかたい桜の木をながめながら花のことをおしえなくてはならない,といったようなことさえあった。また都会の児童も,山の中の児童も,そのまわりの状態のちがいなどにおかまいなく同じことを教えられるといった不合理なこともあった。しかもそのようなやり方は,教育の現場で指導にあたる教師の立場を,機械的なものにしてしまって,自分の創意や工夫の力を失わせ,ために教育に生き生きした動きを少なくするようなことになり,時には教師の考えを,あてがわれたことを型どおりにおしえておけばよい,といった気持におとしいれ,ほんとうに生きた指導をしようとする心持を失わせるようなこともあったのである。

 ところで、この「道路族被害者」の思考の硬直化を笑える人はどれくらいいるだろうか?昨年春の緊急事態宣言下で、外出は自粛しなければならないがスーパーや公園は行っていいと言われたらスーパーや公園にみんなこぞって出かけて「密」を作っていた。このバカバカしさは以前どこかで書いたような気がする。わたしも含めてみなさんも他山の石とされたし。

 なお、今回の記事のメインは学習指導要領一般編(試案)の引用部分である。これをやりたかった。

追記 やっぱり過去に書いてた。noteで。はてなにそのまま持ってきたので、リンクしとく。

syou-hirahira.hatenablog.com