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顧みられない自動車依存の危険性

顧みられない自動車依存の危険性

 「世界」(岩波書店刊)2022年2月号所収の論文「路上を子どもたちに返す」(今井博之著)の、次の一節を読んで、ハッとした。

ボンエルフ(引用者注―自動車の速度を制限するなどし、歩行者との共存を図ろうとする地域のこと)に指定された地域に住んでいる子どもは交通事故にあう確率も低く、自宅周辺の道路上で自由に遊ぶことが許されているし(一人で外遊びをすることを許可しない親は六%に過ぎない)、親が同伴することなく自らの足で近くの公園までアクセスできる。

―今井博之「路上を子どもたちに返す」『世界』2022年2月号、岩波書店

 今まで、こんな単純なことにも気づかなかった。子どもが安全に遊べない道路は、子どもが公園に行くこともできない道路であることに。道路は危険だから公園で遊ぼう、と述べても、子どもは危険から守られない。以前、自分の子どもは車で公園に遊びに連れて行っているから迷惑をかけていないと誇っていた人を見かけたが、その人は、ほかの子どもを交通事故死の危険にさらしていることになる。それでも、保護者が常時付きっきりで見守っていればいいのかもしれないが、はっきり言って、そんなことは、たいていの保護者にとっては無理難題である。

 「道路族被害」なるものは、道路で遊んでいる子どもを、道路は自動車優先と考える人が解釈した結果に過ぎない*1。自称道路族被害者たちは、子どもの問題ではなく親の問題であるとしきりにアピールしているようだが、要は、子どもが自分たちの邪魔にならないように親がちゃんと「処理」しろと言ってるだけなので、子どもを邪魔者として粗末に扱っている。(子どもを粗末に扱っていることにもいろいろ言いたいことはあるが、そのうち書くかもしれない)。

 前掲論文によると、ボンエルフに住む人たちは、子どもの面倒を少しの間見てくれる人を見つけやすいとのことである(これはわたしの要約)。自動車に依存し、道路は自動車のためのものとすることが、子どもを邪魔者として粗末に扱うことを助長し、最後には「被害」と認識させることに至る。こんな弊害がある自動車依存は、改めなくていいのだろうか。

スマホ依存とやらは自動車依存の一側面を見ているだけではないか

 唐突に、下記の記事である。

news.ksb.co.jp 前記のような、子どもが一人で遊べない道路、子どもが一人で公園まで行けない道路環境、そのような環境で、どうして自己決定など学べようか。外遊びをできない環境にしておいて、外遊びなどというのはちゃんちゃらおかしい。わたしは、「スマホ依存」なるものは、自動車依存のある側面を見ただけに過ぎないと考える。その上で、わたしは問いたい。「治療」するべきは、スマホ依存ではなく自動車依存ではないか、と。

追記・自動車が占有している都市空間を子どもに返すことができれば

 書き忘れていたので追記。自動車が占有する都市空間は、実際かなりのものである。道路もそうだし、駐車場もだ。自動車がなくなれば、道路や駐車場として使っていた空間を公園緑地に変えることができる。たとえば環七を二車線にして、残りの道路敷を公園緑地に変えることができれば、どれだけ多くの子どもの遊び場ができるだろうか。自動車依存は、このような形でも、子どもの遊び場を奪っている。

 

*1:自動車依存が極端に進んでいる両毛デルタ地帯で「道路族」被害が報告されないのは、皆が道路は自動車優先と考えているからである。道路は歩行者優先と考える人が一定数いる地域だからこそ、道路は自動車優先と考える人との衝突が生じる。