ふらふら、ふらふら

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もう「めいわく」なんて言葉を使うのはやめよう

 京都の分譲地で、道路で遊んでいる子どもを「めいわく」と感じた人がいた。その人は、同じ分譲地を買った他の10世帯に協議を要請した。結果は、道路で遊んでいる子どもを「めいわく」と感じた人のほうが「めいわく」とされてしまった。そして、村八分の上いじめまで始まってしまった。今日、判決があったらしいが、10世帯からいじめに遭っていた人たちの主張が認められ、賠償命令が出た。事件の概要は弁護士ドットコムのこの記事に詳しい(ただしこの記事は判決までは追ってない)。

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 わたしはこの判決は妥当だとは考えるが、それにしても、「めいわく」なる言葉についてはいろいろ考えてしまう。嫌がらせを受けていた被害者の側の代理人になった弁護士が「10年ほど前から寛容じゃない社会が出来上がってきていると感じています。社会の中には、違うものがあっていいのだけれど、それを許さずに総攻撃していく。共通の敵への歪んだ正義感が見え隠れするようになりました」と述べているが、これ、そんなに新しいことではない。かつて、山形で、いじめ事件が起きた。被害者は亡くなられたが、その被害者は、小学校のころからいじめを受けていた。その被害者が小学校の卒業文集に「めいわくをかけない」と19回も書いているのは象徴的だ。迷惑=権利侵害の式は、どうやら成立しないようだ。「皆」に逆らう者、「「身分」の高い者」に逆らう者が「めいわく」とされる。その意味で「めいわく」を使うと、今回の裁判の場合、10世帯にいじめを受けてきた被害者の側が「めいわく」だったことになる。この辺のことは、ちょっと前の記事で、わたしは下のように詳しく書いている。
 新明解国語辞典第八版による「迷惑」の語義は、「その人のした事が元になって、相手やまわりの人がとばっちりを受けたりいやな思いをしたりすること」とある。だれかがある人の行動を「いや」と感じたら、権利侵害が起きてなくても「めいわく」となる。問題は誰が「いやな思い」をしたら「めいわく」と捉えられるかで、要は立場の強い者(「身分が高い者」や「みんな」を味方につけた側)が「いやな思い」をしたら「めいわく」と捉えられる。日本の社会は、どうやらそういうように動いているようだ。であるから、たとえば、小学校からいじめを受け続けて、ついに殺害されるに至った被害者が、小学校の卒業文集に「めいわくをかけたくない」と19回も書き残す。その被害者は、自身のいじめ被害(れっきとした権利侵害!)で「めいわくをかけたくない」から、親に泣きつくこともなく、ひとり殺害される。
 もう、こんな使われ方をする「めいわく」なんて言葉を使うのはやめよう。もっとも、言葉だけではなく、日本的な「世間」そのものの問題が背後にあるのだが。  

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