ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「生きづらさ」なる言葉への疑念:人権侵害を覆い隠していないか

 E及び控訴人らは、それぞれ、地元の小中学校を卒業後、Eにおいては昭和六〇年四月、控訴人Bにおいては昭和六三年四月、いずれも福岡市内にある同じ私立高校に進学したが、Eは、二年留年して平成二年三月に高校卒業と同時に就職して同年四月一日付けで本件世帯から転出し、控訴人Bは、平成三年三月高校卒業後、亡Dの死亡のため内定していた他県での就職を断念して、福岡市内で就職した。また、控訴人Cは、平成四年四月に福岡市内の私立高校に進学したが、平成五年六月、右高校を中途退学し、以降、福岡市内で就職して稼働している。
―平10.10.9福岡高等裁判所判決、出典は「日本社会保障資料Ⅳ」、国立社会保障・人口問題研究所、2005年3月。

 いわゆる、「中嶋訴訟」の高裁判決。判決文はさらりと書いているが、結構すごいことを書いている一節を引用した。高校を中途退学することを余儀なくされたこの方は、今どうしているのだろうか。福岡市東福祉事務所長が頭下げて終わることではないはずなんだけど。

 この判決を読んで、「生きづらさ」なる言葉の反動性について改めて問い直している。明らかな人権侵害を、「生きづらさ」なる言葉で覆い隠していないか?「すべての生きづらさを抱える人のためのオンラインメディア」とやらを運営してた人間が、人権を盾に他人を攻撃するのは歪んだ正義などと言って、「人権」概念を否定しようとしている。人権侵害を、個人の適応能力の問題にすり替える機能を「生きづらさ」なる言葉が持っていると主張したら怒られるだろうか。だが、誰が何と言おうが、生活保護を利用していたひとが学資保険の返戻金を収入認定され、高校進学がままならなかったのは「生きづらさ」ではなく「人権侵害」なのである。