昨日見た記事。
この記事を読み、「犯罪者」と「わたしたち」の境界線なんてなきに等しいことを改めて認識した。ほんのちょっとしたことで「犯罪者」になってしまう。
交通犯罪だけじゃない。例えば性犯罪だって、制服姿の高校生が道路を自転車で走ってるのを見ただけで犯行に及ぶ者がいる。わたしが裁判を傍聴した事件にそんな事件があった。耐えられずに10分で法廷を出たけど。犯罪者とわたしたちの間に何かはっきりした境目のようなものが見えるわけじゃない。誰がどういう理由で犯罪に及ぶかなんてわからない。そのことを踏まえずに「防犯」を言ってもむなしいだけである。
おとといのこと。わたしにこんなリプライをしてくる方がいた。
いやむしろ騒音被害で人殺しにまで発展したり車に引かれて子供が死んでしまったり、そういう事件が多数起きているのに我が子を道路で遊ばせれる方が凄いと思います😨うちの子たちは騒ぐタイプではないですが私はいろんな意味で怖くて子供を道路で遊ばせれないですね〜。
— 怒りん坊な豆子🔫🤍 (@tami06furu) 2021年1月27日
道路で子どもを遊ばせることについての意見。まるで、子どもを道路で遊ばせなければ犯罪に遭うことはないと言わんばかりである。道路で子どもが遊ぶ騒音に逆上して殺人までに至る人は、公園で子どもが遊んでたって殺人に及ぶだろう。誰がどんな理由で犯罪に及ぶかなんてわかったものじゃないことを踏まえないと、こういう意見を言うのである。
そう考えてくると、防犯なんて言ってもどんどん空しくなるが、社会的な不正義が犯罪の遠因になってる場合なんかは、その社会的な不正義を改めるのは有益だ。たとえば性犯罪の背後にあるジェンダー不平等。制服姿の高校生、それも女子が性犯罪に遭いやすいのはもちろんジェンダー不平等があるからだ。昔読んだ本*1に、男性が制服を着ている高校生の女子に魅力を感じるのは、一人前に成熟した体を持ちつつも、大人に服従していることを示しているからだと言う。これが嘘か真かはジェンダー論の研究者に研究してもらわないとわからないが、何となく制服そのものがジェンダー不平等を作っているという感覚はある。ジェンダー不平等を強化している制服をなくすのは、社会的な不正義を改めるひとつの取り組みだ。また、生活困窮者に積極的に社会保障、とりわけ生活保護を提供するのももちろん社会的な不正義を改める取り組みである。
ここでちょっとだけ余談。「犯罪者を刺激しない」取り組みは、「なぜか」、比較的弱い立場の者にだけ負担を求める取り組みになりがちである。性犯罪に及ぶ者を刺激しないように服装に気を遣うとか、騒音で犯罪に及ぶ者を刺激しないように公園以外で遊ばないとか。だから、生活苦で犯罪に及ぶ者を犯罪に至らせないために生活保護を積極的に提供する取り組みはされない。*2「犯罪者を刺激しない」ことによって犯罪を防止しようとする取り組みが、既存の不平等を強化する取り組みでしかないことの証左。
それでも、犯罪はゼロにはならない。そんなもんだ。犯罪に及ぶ者が出るたびに、刑務所に入れ、矯正教育を施し、また社会復帰させる。それこそ、Mr.childrenの「タガタメ」じゃないけど、「でももしも被害者に 加害者になったとき かろうじて出来ることは 相変わらず 性懲りもなく 愛すこと以外にない」。