ふらふら、ふらふら

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壊れかけている約束~佐々木淳さんへの返信

 この記事を書こうと思い立った時に、タイトルが真っ先に決まりました。これから、わたしがこの記事で書こうとしていることを端的に表すキーワードが、そのままタイトルになっています。

 なぜそんなことを書こうと考えたのか。いつも肩書きをどう書こうか迷う、内科医の佐々木淳さんのFacebook投稿を見たからです。その投稿は、佐々木淳さんが理事長を務められている医療法人悠翔会のブログにも転載されていました。悠翔会のブログにリンクを張っておきます。

www.yushoukai.org

佐々木淳さんの投稿の中で、わたしが一番重要だと考えた部分です。

いま、みんなで守ろうとしているもの。

それは高齢者ではありません。
医療システムでもありません。
私たち一人ひとりの「安心」です。
「死ぬかもしれない」という恐怖や不安なく生活できる社会そのものです。 

私たちが守るべきは、安心して暮らし続ける社会。
そのために大切なのは、誰もが支え合って生きているということを理解した上で、非難し合うのではなく、感謝し合うこと。
そんな重要なことに気づくことができました。
あなたの問いに対する答えになっているのかわかりません。
だけど、あなたのこれまでの「自粛」は、間違いなく誰かの命を救い、そして社会の安心を守ることにつながったと思います。そして将来、あなたが危険な立場に置かれても、この社会はみんなであなたを守るために努力をします。

  と。なんでCOVID-19の感染抑止対策をするのか。その大元になるフィロソフィーに、わたしは気づかされたのです。そうか、こういうことだったのか、と、目が開かれる思いでした。そして、同時に、そんな社会全体の約束が壊れつつあることにも、同時に気づいたのです。
年金問題を例に挙げてみましょうか。ことの本質は人口問題です。いくら年金証書を積み立てていたとしても、その年金証書をモノやサービスと引き換えてくれる人がいなければ、年金証書なんて紙切れです。2020年の20歳が65歳を迎えるころ、日本全体の人口ピラミッドはこんな形になると予測されています。これは最も悲観的なシナリオではありますが、将来人口推計とは最も「当たりやすい」推計ですから、どのシナリオを取っても大きくは変わりません。

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 この図を見て、ずいぶん驚かれたと思います。働き盛りの世代よりも高齢者世代の層が厚いのです。このような社会で、高齢者はどのように扱われるでしょうか?大いに疑問なのです。わたしは、「ホロコースト全史」(創元社)の中で、マイケル・レーベンバウムさんが、リヒャルト・ルーベンシュタインさんの著作を引きながら問題提起していました。曰く、「ただ負担になるだけの国民」の大量殺戮は近代国家にとって永遠の誘惑である、と。これまでは、社会的正義という約束を築き、そんなことにはならないように、社会的弱者を守ってきました。しかし、ここまでの人口構造の変化の中で、そのような約束は維持し続けられるのでしょうか?

 こんな人口構造になるのは、もちろん、子どもや若者の生が尊重されていないからです。高齢者世代は、自分の利害のことだけを考え、選択的夫婦別姓制度にも反対し、子どもの生を尊重するための応分の負担にも反対し、なんなら横浜市が敬老パスの削減と同時に子ども医療費助成の拡充を打ち出した時に「礼儀を知らない若い親や子どもを援助するのは無駄だ」といった若い世代や子どもを批判する手紙が横浜市役所にはたくさん届いたと言います(前田正子「孤立する人々をどう支えるか—包括的対人サービスの基盤整備をめぐって自治体の現場から—」家族社会学研究24巻1号 p. 26-36)*1

 もうひとつ、例を挙げましょう。もう改めて説明するまでもない、相模原障害者施設殺傷事件のことです。犯人は、障害者が生きているのは社会にとって迷惑だと、そういう思想をもって障害者を多数殺害しました。犯人は逮捕され、厳刑が言い渡されました。ギリギリのところで、誰かが危険にさらされたときに、社会はみんなで守るために努力するとの約束は守られたかのように見えます。しかし、このような事件が起きても、この国のリーダーである首相は、優生思想に反対する明確な意思表示をしなかったのです。さらに、犯人の思想に共感する者さえも多数見られたのです。さらにショックを受けることもありました。相模原障害者施設殺傷事件から3年後のことです。京都のアニメーション制作会社が放火され、多くの人が死傷する事件が起きました。この時、多くの人が義援金を寄せ、その額は総額33億円になったとのことです。*2   この結果を見て、あなたはどう思われたでしょうか?同じ殺人事件なのに、障害者が殺されたときには33億円の義援金なんて集まらなかったのに、アニメーターが殺されたときにはそれだけの義援金が集まる。それこそ、相模原障害者施設殺傷事件の犯人が言っていたような「生産性」によって、義援金の有無さえも変わったのです。わたしたちの社会は、相模原障害者施設殺傷事件の犯人の思想に対して正しいと宣言してしまった。

 それだけではありません。「自粛」と言う名の行動制限は、「家族」を強調するものになっています。「家族で過ごす」のは、「家族」の中でヒエラルキーが高い人(主に男性年長者)に心地いい環境を作る一方、「家族」の中でヒエラルキーが低い人(年少者、女性)にとって過酷な状況を生み出していることを懸念しています。「家族」の中のヒエラルキーによって、どういう生活状況になるかが左右されています。 わたしは、このような現実を前にして、すでに、「将来、あなたが危険な立場に置かれても、この社会はみんなであなたを守るために努力をします。」との約束は、壊れつつあるように見えるのです。 そして、改めて思い起こします。わたしが佐々木淳さんの意見について反対意見を書いたときのことを。そのすべてが、社会のために見殺しにされる人々を思っていたのでした。社会が守ってくれるとの約束を壊そうとしているのではないか、そんな気持ちでした。わたしは、これまで、幾度となく佐々木淳さんの意見に反対意見を書いてきました。どこかがおかしい、何かがおかしい、そう考えてました。佐々木淳さんの今回の投稿を見て、何がおかしいのか、わたしの中でそう整理されたのです。

 わたし個人の今の状況は、そこそこ収入もあり、明日の食べ物に困る状況ではありません。だけれども、そんな状況がいつ壊れるとも知れないような不安定な状況でもあります。過去のことを振り返れば、わだかまりはありますが。わたしが子どものころ、壊れた家庭で、わたしはただ命をつなぐので精一杯でした。わたしと同じ年代の人たちの9割以上は高校という場所に行き、高校生活を体験したようですが、わたしには高校生活なんてものはありませんでした。わたしの子ども時代を、社会は決して守ってはくれなかったのです。そんな体験から、若い時代が犠牲にされることの重みは、少しばかり知っているつもりではあります。わたしのことは仕方ありません。だけど、今、現に若い時代を犠牲にしている人たちのために、社会は何をしてくれるでしょうか?本当に、みんながあなたを守るために努力をするなんて約束を守るつもりがあるのでしょうか?そのことをわたしは問いたいのです。

 もちろん、壊れかけた約束をそのまま壊していいなんて考えてはいません。壊れかけた約束は修復しなければなりません。そのための努力はわたしも惜しみません。 壊れかけた約束を修復するのは、高齢者世代が中心になって行わなければなりません。高齢者だからと言って応分の負担さえも免れるのをやめ、己のわがままのために若者を振り回すことをやめる―たとえば選択的夫婦別姓制度反対を取り下げるなど―等々。高齢者世代が果たさなければならない役割はたくさんあります。

 先に、春日部市は、今年の成人式を中止するが、今年の新成人を祝う機会を来年必ず設けると宣言しました。このような形で若い時代をできる限り回復させることも、年長者の責任です。そのために、ワクチン接種を積極的に受ける倫理的責任もあります。若い世代にももちろん倫理的責任はあるのですが。 わたしは、自身の責任を自覚すると同時に、社会のほかの成員、とりわけ高齢者世代の方々が、本当に壊れかけた約束を修復する責任を果たすことを願っています。

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2016年8月17日、相模原市緑区千木良にて。約束が壊れつつあることが示された場所。