ふらふら、ふらふら

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「PLAN75」をノーカウントで拒否できなかった自分に、愕然とした

 少し前に観てきたこの映画。75歳以上の人が、自らの死を選べる制度を導入した社会を描いた映画だ。

happinet-phantom.com 映画を観終わって、「PLAN75」が非人道的極まりない制度であることは頭ではわかっているのだが、それでも、この制度をノーカウントで拒否するとの答えは出せなかった。そんな自分に愕然とした。

 わたしが幼い時のこと。わたしの親はわたしを抱えて電車に乗った。ちょうどラッシュの時間帯だったが、誰一人として席を譲らなかった。誰一人として。幼子を抱えたわたしの親に席を譲らなかった人々の姿が、「PLAN75」に誘導していく人々の姿と重なった。「すでに」、子どもを育てる営みに対して不寛容だった。

 数年前のこと。とある寺社が、正月三が日のベビーカーでの参拝を遠慮してほしいとの看板を出した。それを機に論争になった。その当時のWeb上の記録を今また読み返した。多量の記録のほんの一部しか読んでないのだが、その中で一番刺さったのは、親はどんなしんどい思いをしても子どもを守り抜け、他人に迷惑をかけるなとの主張だった。そう主張する人の姿が、映画「PLAN75」の中で、登場人物が、生活保護の申請を諦めさせられる一節と重なった。「PLAN75」が描いた高齢者への不寛容は、すでに高齢者以外に対しては一般的になっていた。

 子どもに対するすさまじいまでの不寛容、それは、子どもを育てる親は社会に迷惑を書けないようにしろとの言い方をすることが多いが、そのような物言いと、高齢者は社会の迷惑にならないようにしろとの物言いに、さしたる違いを見出せなかった。子どもを育てる親が社会に迷惑をかけないのが当たり前なら、高齢者も社会に迷惑をかけないのが当たり前じゃない?高齢者の「社会に迷惑をかけない」が「安楽死」を意味するものだったとしても。と、そんなことを考えていた。かくして、わたしは、「PLAN75」を、ノーカウントで拒否することはできなかった。

 制度「PLAN75」を正当化する思想・思考は、すでに、この社会の隅々にしみついている。「PLAN75」は別世界のことではない。わたしたち自身が、ケアを必要とする存在に取ってきた態度が、そのまま高齢者に向かっただけだ。